2020年12月27日、今年最後の主日礼拝を行いました。説教者は茶屋明郎牧師、説教題は「不思議な星に導かれて」です。12月24日のクリスマスイブ礼拝に、初めて参加された山崎さんに、奏楽の奉仕をして頂きました。
2020年12月24日、19時半、キャンドルライトの下、クリスマスイブ礼拝を行いました。説教者は茶屋明郎牧師、説教題は「孤独からの解放」でした。
2020年12月20日、クリスマス礼拝の説教です。説教者は茶屋明郎牧師、説教題は「大いなる喜び」です。
12月13日の礼拝説教をYouTubeにアップロードしました。
2020年12月6日
「先駆者ヨハネ」 マタイ福音書 11:2~19
待降節において求められる心備えを先駆者ヨハネを通して学びたいと思います。
非情な、残酷なヘロデ王によって、捕らえられ、牢に入れられ、命の危機にあったヨハネは、イエスに「来るべき方はあなたですか。ほかの人を待たなければなりませんか」と尋ねています。
ヨハネのこの言葉には、イエスに対する疑いの思いが込められています。つまり、イエスが来るべき方であるならば、預言されている救い主の先駆者である私を助けるために、神の大きな力を用いて、ヘロデ王と闘う行動をするはずなのに、そんな動きを見せていないのに、ヨハネは期待が外れたと思っているということです。
注目したいのは、ヨハネが期待通りではないと思いつつも、そこで見切りをつけ、あきらめるということをせずに。そうではなく、ヨハネはイエスに対して尋ね、求め、祈っていることです。
救い主を迎える道備えのために先駆者として働くヨハネが行っているこのことが良き心備えとして示されていると理解できます。
主イエスは、ヨハネの問いかけに、ちゃんと対応し、それにこたえている行いをしていることを示し、「私に躓かない人は幸いだ」と仰って、尋ね、求め、祈ることが必要であることがどんなに真実であり、確かなことであるかを表しています。
もう一つ注目したいのは、主イエスは、「求めよ、そうすれば与えられる。良きものが備えられる」と約束しているように、ヨハネが命の危機にさらされ、預言者としての使命が揺らぎ、自分の尊厳さを見失い、自分を肯定できないと不安になっているのを察しられて、ヨハネは預言者以上の偉大な人物であると告げ、ヨハネが安心し、誇りをもてるような配慮されて、尋ね、求め、祈ることが、救い主を迎える良き心備えになることが示されています。
2020年11月29日
主の光の中を歩む」 イザヤ書 2:1~5
今日から、待降節に入り、主のご降誕を迎える心備えをする時に入りました。
「終わり良ければすべてよし」という言葉は、終わりまでの人生がさまざまな失敗や挫折があり、悲しみや苦しみが続き、悲惨であり、悔いの残る歩みであっても、最後が恵まれているのであれば、それまでの苦労や悲しみがなくなって、自分の人生はこれでよかった、悔いのない人生であったと思える、ということかもしれません。
紀元前6世紀頃、預言者イザヤが、パビロニヤによって滅ぼされていて、絶望的な思いになり、闇のような中にいたイスラエルの人たちに向かって、「終わりの時になったら、光の中を歩むことができる」という神の言葉が告げられています。
光の中を歩むというのは、平和が来るということです。つまり国と国とが争い、滅ぼしあうことがあったけれども、将来の決定的な時に、お互いが認め会い、尊重しあって、共に生き、平和が実現できるようになる。この光は、人間の力によるのではなく、生ける神、生きて働いて、すべてを支配している、創造主なる神による。
時が来れば、生ける神が栄光を発揮される。私たち人間の歴史に介入して、平和を実現されるためにやってくる時が近づいている。このことに心を開いて、心を整えなさい。絶望せずに、失望せずに、心折れずに、勇気を出し、希望を抱き、立ち上がりなさい、とイザヤは落ち込んでいるイスラエルの人たちを励ましています。
主イエスは、神の平和な光を輝かすために私たちのためにお生まれになり、十字架の歩みを通して、神と罪深い私たちとの間の仲保者となり、和解をもたらし、神の平和を実現する。このことに心を開いて、信じ、救いの光が自分においても輝くと信じて、主イエスの誕生を喜びと感謝もって過ごすことが、よき心備えになります。
2020年11月22日
「真の権威」 ルカ福音書 12:4~7
多くの人にこれからの生活はどうなるかと不安や恐れを与えているコロナ禍は、教会においても例外ではなく、礼拝やさまざまな活動ができなくなり、伝道が厳しい試練に立たされて、心が折れ、やる気が萎え、積極的に、希望を抱いて取り組んでいくことが難しくなっています。
「恐れるな」という主イエスの言葉は、地震や豪雨によってひどい災害を受けても、めげずに前を向いて頑張っている人たちやドイツのヒットラーの独裁によって命の危機に晒されたり、天皇制の下で厳しい迫害を受けた人たちの中で、危機にめげずに、犠牲を顧みずに、命がけで戦った勇気ある人たちにつづくように、という招きの言葉であり、背中を押す力となるのではないか。
「恐れるな」という言葉は、キリストの弟子たちに向けられていて、伝道の働きのために反発や非難を受け、命の危機に遭遇し、不安になり、恐れて伝道の意欲が弱くなっているのを見て、キリストは彼らを慮り、慰め、励まし、勇気をもって伝道の技に邁進していくように、と励まそうとしているに違いありません。
イエスは、ご自分の経験をもとに、確信をもって、生きて働いておられる全能の、創造主なる、不可能を可能にし、死んだ者を復活させ、命をもたらす活ける神が共にいて、支え、導き、慰め、勇気を与え、希望を与えてくださる。だから大丈夫だという思いを込めて、「恐れるな」と語りかけています。
私たちがこの言葉を背中を押す力として、積極的になり、勇気と希望をもって取り組んでいく働きへの招きの言葉になるためには、「恐れるな」というイエスの言葉は人間の言葉ではなく、神の権威の下で発せられている神の言葉であると信じられるかどうかです。
ここに固くパウロは、途方に暮れても失望せずと、喝破しています。
2020年11月15日
「むなしい言葉」 エレミヤ書 7:1~15
事柄には二面性があります。同じ事柄に裏と表があるように、厳しさとやさしさ、裁きと愛との相反する見方があるように、です。
本日の箇所には言葉の二面性が取り上げられていて、頼りにしている言葉がむなしい言葉でもあることが言われています。
ある時、イスラエルの人たちが人間の願いや欲望をみたすために造った、実際に存在しないし、救う力もない偶像なる、異教の神々を頼りにし、敬っていると言っていたので、生ける神は、あなた方はむなしい言葉を頼りにしていると厳しく警告しています。
彼らは、生ける神から心は離れ、頼らず、信じなくなり、生活も乱れ、あらゆる忌むべき行いをしているのに、生ける神の神殿に来て、捧げものをし、祈りをするという偽善的なふるまいをして、自分たちの罪をごまかし、隠そうとし、悔い改めもない口先の信仰でも、救われていると言っている、彼らの言葉を聞いて、生ける神はその言葉はむなしいと非難し、このままでは、昔滅ぼされたシロの人たちと同じようになると厳しい警告がなされています。
生ける神がこんなにも厳しく、恐ろしく、冷たい警告を語っているのはなぜかと言うと、それは、イスラエル人たちが神と結んでいる約束を裏切っていたからです。つまり、神が小さなイスラエルの民を一方的な憐れみと恵みによって選び、宝の民とし、神の救いの働きのために用いるという約束があり、その約束の恵みに対する応答としてのふさわしい行いがなかったからです。
その厳しく、冷たく、恐ろしい警告には、生ける神が憎しみのあまりイスラエを見捨て、罰するという思いからではなく、悔い改めて、再び戻ってきてほしいという愛とやさしさにあふれた思いから出てきているという理解ができるのかもしれません。この理解が生まれるためには、旧約聖書をイエスの恵みを通して読むことです。
2020年11月8日
「神に結ばれている者」 フィリピ書 2:19~30
信仰について説明する一つのことは、私たちが新しく変わることであり、心や考え、生き方、姿、そして人間性が今までとは違ってくるということであり、生きる土台が人間中心、自分中心から神中心、他者中心に変わることであり、生きる土台が変われば、そこから生まれる実り、心や生き方が新しくなるということです。
生きる土台を神中心にするということは、ただ神の恵みと憐れみに頼り、すがり、ゆだねるということになります。
神の恵みと憐れみにしっかりと生きたパウロの新しく生まれ変わった姿がフィリピ教会に弟子テモテを遣わすこと、またフィリピ教会から牢に入れられているパウロを助けるために遣わされ、途中で病気になったエパフロディトを戻すことを知らせる言葉を通していろいろと表されています。
一つは、正義感にあふれ、他者に厳しかったパウロが優しくなり、人を気遣い、思いやりの心にあふれ、人の良さを見つけ出し、気づき、ほめるという愛の心が生まれています。
二つ目は、優れた能力に恵まれ、偉大な働きをし、多くの人を救いに導き、力づけ、希望を与えていたパウロは、自分も人の助けを必要としているし、励ましを必要としている、人のつながりの中で生きている存在であることを認める謙虚な心が生まれています。
三つ目は、自分の弱さを認め、受け入れ、結果を見ずに、心の動機を大事にするという見えないところに目を向けて、あるがままの自分を受け入れられる心の自由さがあります。
このような新しさこそ、神の恵みと憐れみに固く立つところから生まれる実りであると言えます。
このことをフィリピの教会に書き送ったのは、これらのことが欠けているのではないかという問いかけがあったに違いありません。
2020年11月1日
「真の信仰」 マタイによる福音書 15:21~28
数多くの父親や母親の子に対する感動的な愛の物語がありますが、本日の箇所も重い病にかかっている、愛する娘の病を治してもらいたいために、さまざまな困難にめげずに、あきらめずに、困難を乗り越えて働き続ける母親の愛にあふれた物語が紹介されています。
この時、主イエスがこの母親に向かって、「あなたの信仰は立派だ。願いが叶えられるようにと言われていますが、この時主イエスが心を動かされた決定的なことは、娘を思う母親の豊かな愛ではなく、神の愛を徹底して信頼する彼女の信仰にあつたに違いありません。
この母親は、主イエスに願うときに、憐れんでください、という言葉を述べていますが、この言葉には、本来私は神から遣わされた聖なる方であるイエスの前に出て何かを願う資格もない、卑しく、貧しい者であり、憐れみを受けなければならない存在であることを示しつつ、その憐れみにすがって、娘の病をいやしてほしいと願う思いが込められています。
母親は何回となく、願いが不当であり、願いにこたえられないという、一見無関心で冷たく感じさせられ、願いが叶えられそうにはないと思われる主イエスの言葉を聞くことになりますが、しかし、彼女は、神の不在や神に見放されているというつらさや苦しさ、悲しみに直面する困難や試練に立たされますが、それにめげずに、心を折ることなく、あきらめずに、食い下がり、執拗に食い下がりながら、願い続けていきます。
この困難を乗り越えて、願い続けていくことができた決定的な力となったのは、彼女自身の娘を思う愛の心ではなく、神の愛を信頼する心、イスラエルだけに向けられた狭い、弱く、貧しい愛ではなく、異邦人のような者も、すべての人を愛し、大事にし、願いを聞いてくださる、無限の大きな神の愛であることを固く信ずる心です。
2020年10月18日
「真になすべき事」 ルカによる福音書 11:37~54
愛に富んでおられる主イエスが、ここでは一転して、「あなたがたは不幸だ。禍だ」という厳しい言葉を、その当時の権力者であり、宗教指導者であるファリサイ派や律法学者たちに向けられているし、そうすれば当然、激しく反発され、敵意を受け、命の危機に晒されることが十分考えられるのに、どうしてなのかと驚き、なぜだと不思議に思うところがあります。
考えられることは、彼らの生き方や信仰に由々しきことがあり、見過ごしできない深刻な間違いがあり、本末転倒的な、本質からずれていて、真になすべきことをしていないという真摯な思いがあったからかもしれません。
また、彼らには、救われているから働き、行いをするという真になすべきことをせず、つまり「必要なことはひとつである」とマリアに言われた主イエスの言葉からも外れ、救われるために働き、行いをすることによって清くなるという本末転倒的な考えがあり、そのことが内面的なことを疎かにし、汚れた心を隠し、外なることによって誇るようになり、自分には甘く、他人には厳しくなり、さまざまな戒めをすることができない弱い立場に置かれている人たちを裁き、排除し、神から遠ざけることをしているのを見過ごしにできなかったからに違いありません。
主イエスは、彼らに裁かれて、ザアカイのように孤立し、悲しみ、苦しんでいる人たちの味方となり、寄り添い、慰め、立ち上がれさせたい、救いたいという強い思いを示し、神の義と神の愛に戻るように、生きて働いておられる神の愛と哀れみの中で、義しくない者を義しい者として受け入れ、尊い者として愛し、いつも共におられるという神を愛することこそ、真になすべきことであるから、そこに固く立つようにと訴えているに違いありません。
2020年11月18日
「救いの達成」 フィリピの信徒への手紙 2:12~18
人生を振り返る時に、自分がこれまで歩んできた日は無駄でなかったし、悔いがないと思えることほど幸いなことはないし、ありがたく、幸いなことはありませんが、実際はさまざまなことで失敗し、挫折し、嫌な思いをしたことが多かったと思い、これでよかったと思えることは少ないのかもしれません。
さまざまな困難や危機に遭遇し、命の危機に晒されているただ中において、パウロは無駄でなかったと確信して言い切っているのは、なぜかと言うと、それは、救われたから、救われているから、神の救いに預かっているからということです。
パウロのように、救われることがどんなにすごいことであるか、必要なことであるかを、私たちも理解しているのかが問われます。
パウロは、救われることは、神の子とされることであり、神に愛され、神が共におられ、支え、導いてくださる恵みに生きることであり、さまざまな困難に勝ち得て余りある大きな喜びと平安そして希望を得て、星のように輝き、命の言葉を保ちながら、愛に生き、赦しに生き、平和に生きることができるからであると言います。
この救われることによって生まれる生き方は、よこしまな曲がった世の中においてこそさらに光り輝くものになる。つまり、憎しみや不寛容そして無責任、嘘偽りが覆う時代の中においてこそ貴重であり、必要であり、尊いものになる。
すごいことのもう一つは、救われるのに必要なことはただ従順だけであり、行いによるのではないということであり、ただ神の恵みをひたすら信じ、恐れつつ、つぶやかずに従うことです。
パウロが確信をもって伝えているのは、救いは神の技であり、ダイナマイトのような大きな力をもって、すべてに関わって、生ける神が救いを完成させてくださると心から信じているからです。
2020年10月4日
「神の呻き」 エレミヤ書 2:1~19
神の技が起きるのは、危機があるからであり、その危機を取り除き、救うために神は働きかけを行い、その危機を救うために、預言者が遣わされます。
預言者エレミヤが遣わされたときの危機は、真実の危機であり、神とイスラエルとの間にかわされていた約束が真実でなくなり、最初の頃の新婚のような、お互いが信頼しあう関係が破れ、イスラエルが生ける神に背き、他の神々に心を寄せ、信頼するようになっていたからでした。
生ける神はこのことを嘆き、呻き、なぜなのかわからない。どうしてなのか。これまで生ける水の源のようになって、支え、生かし、特に苦難の時、共にいて励まし、忍耐できるようにし、豊かな道を備えて、守ってきていた生ける神を忘れ、捨てて、水溜のような、何の助にもならない、人間が作り出した偶像なる神々に心を奪われるかがわからないと神は嘆き、呻きます。
イスラエルのたちは、豊かに恵まれた生活が続くなかで、生ける神から与えられていることを忘れ、自分が努力し、精進し、頑張ったことによって、豊かになっていると錯覚し、欲のままに生きられる偶像なる神々に心を寄せ、堕落していき、真実でなくなる。
戦争の危機に置かれたときも、偶像なる神々を崇拝している他の国々に助けを求めて、生ける神を信頼せずに、真実でなくなる。
この時、エレミヤは神の言葉を語るために遣わされて、もとの信仰に戻るように、苦難の中で気づいた信仰に戻るように、自分たち神なしでき生きていけないものであり、生ける神こそ永遠なる、生ける力と命を与えてくださる方であり、神は無条件で一方的な恵みの中で、自分たちを選び、愛し、赦し、導いてくださる方であるという信仰に戻るように、真実になるように、と悔い改めを勧めます。
2020年9月27日
「神の使者・エレミヤ」 エレミヤ書 1:1~19
エレミヤが神の使者である預言者の召命を受けたのは、紀元前627年、名君ヨシア王の13年目の時で、彼が25歳という青年の時であったと言われています。
思いがけない形で、突然に、強制的な形で、神の絶対的な恵みによって、神の一方的な、自由な思いの中で、自分の思いや野心からではなくて、神との出会いの中で、選ばれ、用いられたのでした。
エレミヤが、神と出会ったのは、直接神の言葉を聞き、聖霊を受けるなどの啓示を受けた時でありました。
私たちは聖書や主イエスの言葉によって間接的でありますが、神に出会い、神の選びを経験できます。
神の使者として選ばれたエレミヤは、すぐには自信をもって神の選びに応えることができない、おとなしく、気の弱い、心根の優しい人であり、エレミヤのような弱く、おとなしい、ふさわしくないと思う人を神が選ばれるのは不思議です。なぜかと思います。
それは、生ける神は、人を新しく創造できる大いなる力を持っておられるからであり、弱いものを強いものにし、堅固な、鉄のような、青銅のような、たくましく、勇気ある人に造り替え、ふさわしいものに変えさせる大いなる力をもっておられるからではないか。
だから、神は「恐れるな」と呼びかけられているのではないか。預言者として働くことには、さまざまな権力者と対峙し、神の裁く言葉を語らざるを得ない。そうすれば、おのずと権力者たちから激しい攻撃を受け、命の危機に晒される恐怖に立たされる。だけれども、真に畏れる存在である神を畏れるならば、人を恐れなくなる。
エレミヤはこの言葉に励まされて、真に畏れるべき神を畏れるならば、必要なことはすべて与えられると確信できて、勇気をもって預言者として立つことができたに違いありません。
2020年9月20日
「従順と栄光」 フィリピの信徒への手紙 2:1~11
なぜ、信仰が必要なのか、どうして神を信じ、従っていくことが必要なのか。その答えの一つが神の恵みや祝福、そして栄光を得ることができるからです。従順であれば必ず神の恵みが得られるということではなくて、あくまでも神の一方的な、自由な思いの中でのことです。
与えられる神の恵みにはさまざまなことがありますが、その一つはよりよく生きていくことができることであり、一人では生きられずに、他者と共に、社会の中で生きていかなければならない私たちにとってよりよく生きていくということは一つになれることであり、心や思いを同じにして、共に助け合い、協力し合い、尊重しあって生きてこそ、幸いとなり、喜びや感謝がえられます。
私たちは、さまざまな違いを受け入れられないため、また完全でもなく、さまざまな欠けや弱さによる生まれる、反発や非難そして否定や軽蔑という思いのため、競争心や虚栄心、そして自己中心な思いが強いことのために一つになるのが本当に困難です。
よりよく生きるために必要となる一つになるという生き方は、私たち人間の力では困難であるから、他者の力が必要になり、神の力をえるために神に従順になる信仰が必要になるわけです。
キリストの励まし、神の愛の慰め、霊による交わりという信仰によって、慈しみや哀れみの心が生まれ、違いを乗り越え、赦し、受け入れあい、尊重しあい、共に生き、一つになれるというのです。
パウロは、フィリピの教会の人においても、一致が見れず、対立や排除が行われていることを見て、真の信仰がない人がいるのを指摘し、そのなかで本当に神に従っている人たちに向かって、死ぬまで従順であったイエスに栄光をもたらした生ける神は必ずその信仰に応え、よきものを備えてくださることを伝え、励まします。
2020年9月13日
「全身の輝き」 ルカ福音書 11:33~36
コロナ禍の中で光となるのはワクチンであり、ワクチンの服用は私たちの希望になり、安心となり、喜びとなります。このように私たちを照らし出し、明るくさせ、生き生きとさせる光のような存在がいろいろとあり、その光のことがここでも言及されています。
「一隅を照らす」という最澄の言葉にありますように、この言葉は、自分の持ち場で一生懸命に生き、他者を思いやり、困っている人を助け、苦難に会ってもめげずに、前を向いて生きていく人が輝き、その素晴らしい行いを通して、その人が輝き、その輝きが人を照らし出し、明るくさせる人間のことが、例えば大阪なおみさん、中村哲さん、田中正造さんのような人のことが教えられています。
ただ、主イエスの言葉で示されているのは、自分の行いによってではなく、月や星が太陽の光に照らし出されて輝いているように、「世の光である」主イエスの光を浴びることによって、私たちもみな全身が輝くようになるということが教えられています。
全身が実際に輝くためには、照らし出されている主イエスの光が私たちにおいて実際に光っているか、暗くなっていないかを調べることが必要であり、体のともし火である目が、心の窓である心の目が澄んでいるか、濁っていないかを吟味しなければならい。
種まきのたとえ話にあるように、頑なな心であり、忍耐のない心であったり、中途半端な心である濁った心の目であったら、主イエスの光は光らない。よく耕された柔らかい土のような、素直な、単純な、謙虚な、幼子のような心の目が主イエスの光を受けいれて、光るようになる。つまり神の愛の光に照らし出され、自分が神の愛に支配され、尊いものとして生かされ生きているという信頼が光となり、自信や誇りが生まれて全身が輝き、他者のための行いが生まれて、他者を照らし出す光となる。
2020年9月6日
「義人ヨブの苦難」 ヨブ記2:1~13
義人ヨブが、富を失い、愛する子供たちを奪われるという過酷な災難だけではなく、自分自身も、見舞いに来た友人たちが言葉をかけられないほどの激しい苦痛を受けるひどい災難にあっても、神を呪うはずだというサタンの思惑は外れて、呪うことはせず、呪わないどころか、神をほめたたえ、幸いも不幸もしっかりと受け止めるという素晴らしい生きた信仰を示しています。
考えられることの一つは、生きた信仰には、神に恥をかかせたくないという強い思いがあるということであり、この思いが自分の言動によって神の偉大さや愛にケチをつけられるようなことはしたくないという思いがあったからです。
二つ目は、生きた信仰には、この世の出来事を相対的にとらえられる力と知恵があるということであり、幸いや不幸となることにしがみつくことなく、自由になれるからであり、このように相対的にとらえられるのは、絶対的なこと、つまり真実な愛に、この世の様々な苦悩や恐れから解放されて生きられる、絶対的な真実の愛を生ける土台に据えていたからです。
三つ目は、生きた信仰には、因果応報的な考えから自由になれるからであり、何か悪いことがあり、それは罰であり、祟りであるという考え方から解放されていることであり、そのことは、義人であるヨブが苦難を受けていることによっても示されています。
苦難は祟りや罰ではなく、むしろ神の栄光を表すことにもなるということを主イエスは語っており、十字架の苦難と死によって神の赦しと愛があらわされていて、罪が裁かれることはなくなり、祟りとか罰を受けるということはないことが確かめられています。
ヨブがこの生きた信仰に固く立つことができたのは、神に出会い、徹底的に砕かれ、無にされ、新しくされていったからでした。
2020年8月30日
「神は与え、奪う」 ヨブ記1:1~22
大富豪であったヨブが一瞬にしい大きな財産と大切な子供たちを失うという大災難にあいます。まさに絶頂から奈落の底に、天国から地獄に、幸いから不幸に突き落とされます。どんなに悲しく、苦しく、絶望的な思いに打ちひしがれたことか、想像を絶するものがあります。
どうしてこんな大災難、悲惨なことが起きたかというと、それはヨブに責任はないところで、つまり、神とサタンとのやり取りの中で、サタンからの挑発に乗る形で起きています。
ヨブの信仰は申し分のない、無垢ものであると神が高く評価し、信頼しているのを見て、サタンがヨブの信仰はご利益的なもので、いろいろと恵みを受けているから、理由があるから信じているのであって、わけもなく、報いもなく、信じているのではなく、心から神をあがめているのでもなく、ただ自分のために神を利用しているだけだ。だからヨブの富を奪ったら、そのことがわかる。化けの皮が剥がれるようにして、真の姿が現れる、とけしかけます。
この問いかけに対して、神がサタンに、一切の富を奪ってもよいと許しを与える中で、ヨブからすれば、よけいなことを、と思えるような形で、想像を絶するような災難がヨブに臨んだのでした。
この災難に直面したヨブは、神の信頼と期待を裏切らない形で、サタンが敗北する形で、素晴らしい、生きた、本物の信仰を見せます。つまり、さまざまな葛藤を乗り越えて、ただ神にひれ伏すようにして、すべてのものは神から与えられたものであり、すべては神の支配の中にあり、神が自由にできるものであるから、この災難も受け入れるしかないし、受け入れることが大事だと理解し、ただ私は万事を益としてくださる生ける神にすべてをゆだね、信じ、従うだけだと思って、神をほめたたえる生きた信仰に固く立ちます。
2020年8月16日
題:「真の幸い」 聖書:ルカ福音書11:27~28
さまざまな幸福感があり、様々なことに、私たちは幸いを感じています。主イエスは、「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」と教えておられます。
この教えは、ある女が、主イエスが特別な驚くべきことをされたことを称賛し、幸いであると言い、マリアが主イエスの母であることを称賛して、幸いだと語ったことを否定する形で、それは間違っているという思いの中で、出てきた言葉でした。
神の言葉を聞き、それを守る人が幸いであることが理解できるためには、神の言葉をどのように理解するか、ということと関わってきます。
まず言えることは、神の言葉とは、神の支配のことであり、この世はすべて神の支配の中にあり、すべてのことは神から生まれているものであり、称賛する特別なことも神によって与えられたものである。その思いから謙虚さが生まれる。謙虚さほど気高く、崇高なものはない。だから幸いである、ということです。
二つ目は、神の言葉は神の愛のことであり、神の愛によって生かされている。どんなに愚かで、罪深い者であっても、赦されて大事なものとして生かされていることであり、赦され、愛されていることを信ずる信仰によって大きな力と命が与えられて、愛に生きる人に生まれ変われることができ、崇高さと気高さを身につけられる。だから幸いである、ということです。
三つ目は、幸いをもたらす神の言葉を聞き、守ることは、どんな人にも開かれているし、どんな人も、聖なる方であり、偉大な方である神とつながり、神の命を注がれて、謙虚さに生き、愛に生きる人に生まれ変わり、気高さや崇高な人に引き上げられる。このことがすべての人において実現する。だから幸いである、というのです。
2020年8月9日
題:「福音に生きる」 聖書:フィリピ書1:27~30
福音に生きることには様々な戦いがある。つまり信仰の戦いがあることをパウロは伝え、その戦いをしっかりと担っていくようにと勧めています。
信仰に対して、日ごろの疲れや痛みや苦しみから逃れ、慰めや癒しそして平安を求めようとする人に対しては、躓きとなる言葉になるのかもしれません。
パウロからすれば、キリストの福音に生き、良き知らせであり、これまでの信仰理解や価値観と違い、新しい生き方が教えられている福音に生きる信仰にはおのずと反発や否定そして非難・攻撃が伴うという理解があったに違いないし、その戦いを担っていくことにこそ、真の、本物の、渇くことのない、豊かな癒しと慰めそして平安が得られるという確信があったに違いありません。
パウロが、さまざまに反発や避難そして時には村八分的な扱いや差別、命の危機に晒される厳しい戦いが強いられることが分かっているにも関わらず、脅かされてもたじろぐことはなく、その苦しみを恵みとして受けとめることができると確信して、戦いを担うように勧めている理由は何かというと、それは、信仰の戦いは一人ではない。共に戦っている人がいるし、確かなことは、神が共におられ、味方となり、支えているという思いであり、この思いはパウロ自身の経験から出ているものでした。
つまずかずに、逃げすに、勇気をもって戦いを担っていくために必要なことは、ただ福音にしっかりと立つことであり、ただひたすら、神の愛を信ずることであり、自分を見ないで、ただキリストだけを見て、上を見上げて、神の豊かな赦しと愛に集中して、どんな者も尊いものとして受け入れてくださる福音に立つことです。
2020年8月2日
題:「平和の到来」 聖書:ルカ福音書17:20~21
広島、長崎に原爆が落とされ、敗戦した日から75年という年月が過ぎ、戦争の悲惨さや平和の尊さの意識が薄れてきています
戦争経験者や被爆された人そして沖縄の人たちは、真の平和があるのか、戦争ができる国造りが進んでいるのではないか、戦前の日本に戻りつつあるのではないかと憂え、悲痛な叫びをあげています。
主イエスも、平和憲法を守り、核のない平和な社会のために日々行動しているこれらの人達に見習い、平和の課題は信仰者の課題であり、責任でもあるという思いを込めて、「平和を実現している人たちは幸いだ。この人たちは神の子である」と祝福しています。
聖書は平和な国を神の国として表していて、また初代教会のような、皆が助け合い、協力し合って生きる共同体、パウロが言う「義と平和と喜び」が実現している状態として説明しています。
主イエスは、パリサイ派の人たちとの問答の中で、神の国は見える形で、あそこに、ここにではなく、どこかのある場所に実現するというのではなく、あなた方の間にある。見えない形ではすでに神の国はこの世に来ていると教えておられます。
神の国とは、神が支配しているところであり、この世は私たちを脅かし、恐れさせ、人間らしさを奪う不気味な力ではなく、私たちが安心して平和に暮らせるように配慮する大いなる生ける神が支配しているところです。このことが悪霊を追い出したり、死に勝利した十字架と復活の出来事によって明らかにされています。
主イエスの十字架によって敵意という隔ての壁が取り除かれ、赦しと愛に生きる新しい人間が造られ、さまざまな違いを超えて一つになり、共に生きる共同体を作り出し、平和な国が実現していく。
み国が来ますように、と祈ることによって、戦争の悲惨さのなかでも希望が生まれ、平和への取り組みに参加していることになる。
2020年7月26日
題:「神からの使者」 聖書:イザヤ書61:1~9
豪雨などの自然災害によって被災された方々などさまざまなことで困っていて、苦しんでいる人達にとっては、ボランティア活動などの働きが慰めや励ましそして元気づけることになっていますが、実際の行いがなくても、何かを伝えるという働きも苦悩の中にある人を助け、支えることになるに違いありません。たかが伝える働きですが、されど伝える働きであるということかもしれません。
紀元前6世紀半ば、バビロン捕囚から解放され、イスラエルに帰還し、荒涼としたエルサレムの町にたどり着き、暗澹とした、打ちひしがれた、絶望的になっていた人たちは、預言者イザヤが伝えた神からの良き知らせ、恵みの言葉を聞いてどんなに慰められ、励まされたことか、どんなに希望を抱くことができたことがと思います。
イザヤが預言した、聖霊を注がれて、神の恵みを実現するために遣わされる神からの使者は自分であると確信されたのが主イエスでありました。
主イエスは、重い皮膚病やさまざまな苦難を背負い、罪人のレッテルを張られ、過去を嘆き、将来のことを思い煩い、いろいろと打ちひしがれ、囚われている人たちに対して、皆赦され、かけがえのない者として愛され、尊いものとして受け入れられ、神が共におられるという良き知らせを伝えて、解放し、自由を与え、慰め、励まし、希望を与えることをされています。
このことが実際に私たちにおいて起きるためには、良き知らせを聞くことが必要であり、聞くことができるためには、伝える人がいなければなれません。神はその伝えるという尊い働き手、使者になってほしいし、この知らせを聞くことができた人こそ伝える人にふさわしいし、伝えていく責任があると呼びかけています。
2020年7月19日
題:「生も死も益なり」聖書:フィリピの信徒への手紙1:21~26
パウロは命の危機にさらされ、恐れ、絶望という虚しさに襲われる状況である牢に入れられている時に、「死も益なり」という言葉をどんな思いで語っているのでしょうか。
一つは、ニヒリズムからではなく、つまり聖俗二元論的な考えの中で、この世は卑しく、体は価値がないし、価値あるのはあの世であり、魂と考えていたからではなく、ギリシヤ哲学のある一派のように死が幸いであり、自殺はよいことだと考えたのでもない。
この考えと真逆な生き方をしているのがパウロであり、彼はこの世でよりよく生きていこうとしていたし、誇りや喜びをもって他者のために生きることを大切にしていた。
もう一つは、命にさらされていることの恐れや悲しみに耐えられずに、死を望んでいるのではなく、そうではなく、感じている恐れや絶望に勝ち得て余りある恵みを、素晴らしく、最大なものを得ていたから、悔いがないし、満たされているし、いつ死んでもよいと思っていたからでした。
言葉を変えていえば、キリストのために生きていることによって、パウロは、自分の人生が真の、最大の、偉大な人生になり、誇りと愛と永遠の命に預かっているものであり、死んでも主イエスと共に生き、永遠なる神につながれるという確信があったからでした。
パウロのように、他のことはキリストには代えられないし、他のものは塵芥のようなものだという意識を持っているかどうかが私たちにおいて問われているに違いありません
パウロのように意識を持てるために必要なことの一つは、聖霊の働きを受けることであり、聖霊を受けるために、おのれをむなしくし、謙虚になり、ひたすら、信じ、神の言葉に触れ、祈り求めていくことが必要であるに違いありません
2020年7月12日
題:「福音の前進」 聖書:フィリピの信徒への手紙 1:12~20
パウロが強い思いで知ってほしいと願っていたことは、福音の前進のことでした。すなわち、自分が牢に入れられていることによって、福音を延べ伝える伝道ができなくなり、うまくいっていないし、失敗であると思い、福音が後退し、停滞していると思っていることに対して、それは、誤解だし、間違っている。そうではなく、その危機の中でも、福音が延べ伝えられ、実りが生まれて、前進していることをパウロは知ってほしかったのでした。
福音が前進したことの具体的なことは、パウロが牢に入れられることによって、パウロを監視している人たちにキリストの恵みが伝えられたことであり、同労者にパウロの危機や試練がかえって勇気と確信を与えたことです。
このような形で福音が前進していると思ったパウロは、そこに聖霊の働きがあることを確認でき、自分の福音伝道が生ける神に祝福されていると思い、自分の救いを確信できたのでした。
同労者の中に、妬みや悪意によってパウロの伝道を邪魔する存在に対して、そのことに対して、気にも留めず、落ち込みもせず、ましてや復讐したりしないで、ただキリストが延べ伝えられているのだから、喜ぶと言えるパウロに偉大さを感じます。
この偉大さは、福音の力からくると言ってよいかもしれません。すなわち、福音の力とは、神の力であり、無から有を、死から命をもたらし、罪人を義人として受け入れる愛で支配している創造主なる生ける神の愛の力であり、万事を益にする力であり、危機の中に希望を、闇の中に光を、悲しみの中に喜びを、損失の中に良きものを見出すことができる知恵と力を与えるものです。
この福音をただ信じて、ただ生きていくことによって、偉大さをもたらす福音の力が私たちにおいても実現していくのです。
2020年7月5日
題:「悪霊からの解放」 聖書:ルカ福音書 11:14~23
主イエスは、口がきけないという障害を、その当時迷信みたいな形で、悪霊に取りつかれていると理解していた障害を神の指で、つまり神の力で癒し、口が利けるようにされる奇跡をされた後、言い換えると、人間の尊厳を奪い、不自由になっていた状態から解放し、自由にし、尊厳を取り戻すという驚くべき業をなさった後に、「神の国はあなた方のところに来ている、つまりあなた方人間を真に支配し、導き、支えているのは、偶然でもなく、運命でも宿命でもなく、ましてや不気味な力によってでもなく、死を滅ぼされて命をもたらすことができる生ける神である」と仰っています。
愛の力である神によって支配されている神の国では、人間の尊厳や人権が守られ、生き方や能力、そして民族や人種、思想信条や宗教などの価値観に違いがあっても、そこには優劣はなく、貴賤もなく、みな同じひとりの人間であり、同じように平等で尊い存在として受け入れられるところです。
ユダヤ人などの他の民族を排除し、虐殺し、ドイツ民族による国家を建設したナチス・ヒットラーや天皇を中心にした神国日本という日本民族による国家とも違い、賀川豊彦牧師たちによる神の国運動は主イエスの教えを実践していくものであったに違いない。
神の愛の力によって支配されているときに、香港の人たちのように人間の尊厳や人権そして自由の大切さを守るために勇気をもって命がけで声を出し、言うべきことを主張できる主体性と自由を持つことができるし、またヘレンケラーさんたちのように過酷な状況に置かれても、感謝して生きられる魂や心の自由をもつことができるのではないか。
神の国が実際に私たち自身においても実現するために、ただ幼子のように、謙虚になり、無になり、神の愛にすがることです。
2020年6月28日
題:「救いが間近に」 聖書:イザヤ書56:1~8
危機や苦難の中で慰めや癒しそして励ましを与える働きの中で最大の力は、神からの働きかけであり、神からの言葉である。
その神の言葉が、預言者イザヤによって、紀元前6世紀の半ば、国が破れ、バビロン捕囚という深刻な危機から解放され、再び祖国のイスラエルに帰還した人々に、臨みます。
戦後の日本のように、国土が荒れ果て、人々の心も荒み、またエルサレム神殿も崩壊していて、この先どうすればよいか、国の再建はできるのかという不安や恐れのただ中にあった人々にとっては、救いが間近であるという神の恵みの言葉を聞くことができたのは本当に驚きであり、慰めであり、希望であったに違いありません。
さらに驚いたのは、神の救いはすべての人々に及ぶということであり、異邦人や宦官が、自分たちは汚れているし、ダメな存在であるから、関係ないと思ってはならない。なせなら、主イエスも、「私が招くのは、正しい人ではなく、罪人である」と約束されているように、神の恵みは一人ももれなく、すべての人に当てはまるというメッセージであったからです。
さらに驚くことは、神が与えてくださる恵みが本当に豊かなものであったということです。つまり、罪深い者が赦されて神の子として受け入れられるだけでも奇跡的なことであるのに、くずのように卑しく、惨めな者を宝のような者としてみなし、ずっと自分のものとして大事にしてくれることであり、私たちの命は私自身のものではなく、神のものであるから、自分はダメだと思って、自分を卑下し、粗末に扱ってはならないというメッセージであつたからです。
この恵みが実現し、神の栄光があらわされる救いが間近であるから、失望せず、落胆せず、あきらめないで、希望という松明を赤々と灯して、祈りつつ、待ち望んでいなさいと呼びかけています。
2020年6月21日
題:「期待と喜び」 聖書:フィリピの信徒への手紙1:9~11
大切な人や愛する人がいれば、その人が幸せであってほしいという願いや期待が生まれ、その願いや期待がかなえられるように祈ることが出てきます。愛すると思っていても、そこに祈りがなければその愛は本物ではないと言っても過言ではないのかもしれない。
パウロも愛を注いでいたフィリピの教会の人のために絶えず祈っています。つまり、彼らが豊かであり、何が重要であるかを理解して、純真で、責められることのない人になり、神の栄光をたたえるようになってほしいという期待と願いを込めて、祈っています。
この時の祈りは一段と真剣さや切実さが込められた祈りになっているように感じます。なぜかというと、キリストの日が来るから、イエスの再臨があり、真理が明らかにされ、生ける神の存在、この世はすべて生ける神の愛に支配され、導かれていて、そのことを伝えるために救い主として遣わされていた方がイエスであることが真実であり、真理であることが明らかにされる中で、私たちの生き方か問われる日が来るからと思っていたからです。
また、その時は、さまざまな試練の中で守り通してきた信仰が祝福され、報いられる。信仰生活は無駄ではなかったし、神と共にある尊い人生であり、悔いのない人生だと思える時になるという確信があったからに違いありません。
いつか生き方が問われ、愛が問われ、本物か、真実か、正しいかという形で、愛が問われるというのに、裁かれ、罰せられるかもしれないと不安が残る中で、パウロはなぜ、期待と願いをもってフィリピ教会の人たちのために祈ることができたのか。
それは、愛に生きる生き方は神のわざであり、神が実現してくださるからであり、そのために必要なことは、ただ神の前にむなしくなり、神を信じ、真に神につながることだと思っていたからです。
2020年6月14日
題:「福音に共に預かる」 聖書:フィリピの信徒への手紙1:3~11
喜びをもたらすことの一つが愛であり、パウロも愛に生きる中で、喜びをもってフィリピ教会のすべての人たちのことを覚えながら、祈っています。
パウロの愛は、自分のことだけではなく、他人にも心を尽くす愛であり、家族や友人であるからとか何か価値があるからと思って愛する限られたものではなく、教会に属しているということですべての人に心を砕いている愛、すべての人を包む寛容さを持つ愛である。
誰よりも大きな、偉大な働きをしていた偉大な伝道者であるけれども、パウロは、自分ひとりでなした業であるという独りよがりの、高ぶった思いはなく、そうではなくて、多くの人たちに助けなしでは実現しなかったし、他の人たちの働きと共に行った働きであり、そして与えられたものであり、憐れみと恵みによって、ふさわしくないものがふさわしいものとして必要とされ、選ばれ、用いられたおかげであるとしつかりと受け止める心を持っていました。この謙虚な心はパウロが受けた愛から来ています。
パウロが受けた愛は言うまでもなく、イエス・キリストの愛であり、人間からの愛ではなく、神の愛です。イエス・キリストを通して与えられた神の愛によって身に着けた愛であり、愛の果実を実らせる愛の木に新しく造りかえることができる大きな力を持つ神の愛によって、愛される中で生まれた寛容さと謙虚さです。
パウロのように、愛の力や命を受ける新しい人に生まれ変わるためにはどうすればよいのか。それは、主イエスが、「あなたたちは枝であり、木の幹である私につながらないと枯れてしまう。つながっていてこそ、愛の命という養分が流れてきて、愛の果実を実らせることができる」と約束されているように、私たちは何もできない無力な自分に気づき、ただイエスを信じ、つながるしかありません。
2020年6月7日
題:「喜びに満ちて」 聖書:フィリピの信徒への手紙1:1~11
生きることは喜びであるという言い方が正しいのなら、喜びのない人生は惨めだし、真っ当な人生ではないとなる。だから私たちは、喜びのある人生をあこがれ、求める。
紀元60年ごろにパウロによって書かれたこの手紙は、喜びの書簡と言われていて、パウロの喜びにあふれた思いが綴られている。
この手紙はパウロが獄に入れられ、命の危機にさらされる大変な試練の中で書いているのに、どうして喜びが生まれているのかと驚きをもって読まれてもいる。
理解できることの一つは、パウロは危機のなかにあってもそれにとらわれずに、自由であったということです。つまり、普通なら、不安や恐怖にとらわれ、嘆き悲しみ、落ち込み、自分にとらわれて、不自由な状態に置かれるはずなのに、パウロはそうではなく、危機のただなかで、危機を危機と感じずに、それらから自由になって、祈りと賛美をしながら、心の底から湧き上がるような大きな喜びに満たされている。
この時、パウロは何か良いことをしたり、何かうれしくなるようなことをしてもらったからではなく、キリスト・イエスの僕であるという言葉にみられるように、存在そのものが新しくされ、危機の中でも、喜べる人間に作り変えられていたと言えます。
パウロが新しい存在になったのは、キリストの恵みと平安を経験したからでした。つまりパウロは復活のキリスト・イエスに出会い、徹底的に裁かれ、粉々に打ち砕かれ、無に等しい存在になり、それと同時に許されて、愛され、かけがえのない存在として受けいれられていることを経験し、キリストがすべてであるという思いの中で、自分にとらわれずに、自分から解放されて、キリストの僕として生きていくことによって、真の自由を得て、喜びが生まれたのでした。
2020年5月31日 ペンテコステ礼拝
題:「聖なる霊」 聖書:エゼキエル書37:1~14
生きることの大切さ、生きていることの尊さ、存在しているだけで尊いことを知ることが真理であり、悟であると言えますが、生きていること、存在していることは当たり前でもなく、当然のことでもなく、そうではなくて、特別なことであり、奇跡であると思える
人には大きな喜び、幸いそして生きがいが見いだせるに違いありませんし、このような人は、自分で生きているのではなく、生かされて生きているし、外からの力によって生かされていると気づく人なのかもしれません。
現実は、このことを理解できることは難しく、多くの人が生きている意味を見いだせずに、しんどく、苦しくなっていて、そのために自らの命を絶つ人も少なくない。
生ける屍のような存在になっていた、紀元前6世紀のバビロン捕囚によって国が滅んでいたイスラエルの人たちに向かって、預言者エゼキエルは、神から示されたところの「枯れた骨に神の言葉が望み、聖霊が注かせれて、生き返ることができた」幻を語って、聖霊を受けるならば、必ず絶望から解放されて、立ち上がって力強く生きられることを伝えています。
聖霊とはどんなものであるか。それは、風のように見えないけれども、いろいろと働きかける存在であり、わたしたちに愛する力、喜べる力、希望をもたらす力であり、神が存在していること、無から有を生じさせる大いなる力を持ち、豊かな愛の力でもってわたしたちを赦し、贖い、愛してくださる方であり、この救いを実現するために主イエスは死んで復活されている真理を理解できるようにし、そして生きていることの尊さに気づかせる力が聖霊です。
聖霊が私たちにも必要である。だから求めなさい。神もそのことを求めている。だから求めたら必ず与えられると約束しています。
2020年5月24日
題:「今、求めよ」 聖書:イザヤ書55:1~13
信仰は持っているとか、あるとかということではなく、信じていくということがなくては、実際に信仰によって得られる神の恵みを得ることは難しいし、生きる力、愛する力、希望に生きる力という恵みを得るためには、信じていくという決断をその都度していかなければならない。
事柄には時があると言われているように、信ずることにも時があるし、時宜にかない、ふさわしい時とは、神の言葉を聞くことであります。その意味において、神の言葉を聞けるということはどんなに幸いであり、ありがたいことであるか。もっと幸いで、ありがたいことは、聞くだけではなく、神の言葉を求めて、信じていくことではないか。
紀元前6世紀、イスラエルがバビロニヤに破れ、奴隷となるという危機の中で、肉体的にも精神的にも飢えかわいている時に、預言者イザヤから、「神に求めよ、今、悔い改めて神の身元に立ち返りなさい。そうすれば赦され、解放され、再び豊かな実を結ばせるような生活が与えられるという」という神の言葉が伝えられています。
この神の言葉を聞いてありがたく思い、その呼びかけにすぐに従った人たちかどれぐらいいたのでしようか。
心をかたくなにしている人、信頼できずにあきらめている人、真に助ける力のない無力な、偶像的な存在に頼っている人たちも多くいたに違いないし、人間の愚かさや浅はかさ、そして欲望のために、神のとてつもなく大きく、豊かで、広い思いや慈しみが理解できずに、神の救いの約束の言葉が自分にも向けられていることを信ずることができずにいたに違いありません。
大事なことは、神の救いの言葉を聞ける今であり、今のこの時に、求め、信じていくことです。
2020年5月17日
題:「必要なことは一つ」 聖書:ルカ福音書10:38~42
もてなす行為は、私たちの生活では、日常茶飯的に行われていて、もてなす側になったり、もてなしを受ける側になったりすることが多々あり、その時の雰囲気はその人間関係によって違ってきます。
マルタが主イエスをもてなしたときは、尊い方をもてなす場合に当たりますから、すごく大きな緊張感を抱きながらの振る舞いであったに違いありません。
このような中、マルタは本当に心を込めて、粗相のないように、心から喜んでもらえるようにという思いで、一生懸命になって、猫の手を借りたいほど心せわしく動き回っていましたが、何もしないで、ただ主イエスの話に聞き言っているマリヤを見て、心を乱し非難するようになって、雰囲気が一転して悪くなり、とげとげしくなり、主イエスのマルタへの注意によってさらに緊張感が高まります。
主イエスが注意したのは、マルタが心を乱し、思い悩んでいることでした。つまり、もてなす振る舞いを非難し、否定しているのではなく、そうではなく、もてなす振る舞いには、様々なことがあることや相手の立場に立ち、気持ちに寄り添ってもてなすことが必要であることに気づかずに、親切の押し売りみたいな状態にあったために、いらだって、マリヤを非難していることでした。
マリヤは話を聞くことも主イエスをもてなすことの一つであり、それを主イエスも最も求めていることであることを知り、必要なことであることとして理解していたので、主イエスはマリヤは良い方を選んだと褒めておられます。
主イエスがご自分が話す神の言葉を聞くことがまず必要であると思っておられたのは、神の言葉からすべてが生まれるという確信があったからです。つまり神の愛を知ることから、すべてのより良い行い、真にもてなす振る舞いが生まれるという確信からです。
2020年5月10日 130周年記念礼拝
題:「私たちの使命」 聖書:マタイ福音書11:25~30
様々な分野において、これこそ私の使命であると考えて、取り組んでいる人が数多くいるし、使命感が試練に直面しても、忍耐し、頑張って取り組んでいく大きな力になっているに違いありません。
主イエスが使命感を持っておられたのは、自分の思いからではなく、ましてや野心的な思いからではなく、そうではなくて、神から与えられたものであり、洗礼の時のように神の言葉が直接に臨み、また聖霊の働きかけを受け、イザヤなどの預言者が予言している、救いをもたらすために遣わされるところの主の僕はご自分であるという自覚が与えられていたのだと思います。
だから、主イエスが「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と語った言葉には確信と権威が伝わってきます。つまり、この確信や権威は、主イエスがご自分を通して、神の国が実現していく。ご自分を通しても神の栄光が現れる。ご自分を通して神の愛による支配が実現していく。ご自分には、創造主なる神が、つまり無から有を生じさせ、不可能を可能にできる大いなる生ける神が共におられ、聖霊が働くことによって、ご自分が語った言葉は実際に事柄となっていく、疲れた者や重荷を負う者が実際に慰めが与えられていくという信頼があったからでした。
このことを伝えていくことが私たちの使命であり、イエスを指し示して、この人を見よ、この人こそ救い主、この人にこそ慰めと平安がある、この人にこそ豊かな赦しと大きな愛があることを訴えていくことであり、また赦された者として、愛された者として、感謝し、喜び、望みに生きていく生き方を示すことが私たちの使命です。
コロナ禍により、不安や恐れ、そして絶望が渦巻く世界的な危機に心を痛め、慰めや安心を与えようとして日夜働いておられる生ける神は必ず危機を救う使命を与える人を遣わすに違いありません。
ここからは、私自身が牧師としての使命を与えられたことの証しをさせていただきます。
このことを詳しく語ることを今日までいろいろとはばかることがあり、はっきりと言ってきませんでしたが、いろいろな中で、はっきりと伝える時が来たのではないかと思いましたので、話すことにしました。
で、一言でいえば、ある時、私自身が、使命を与えられているという神の言葉を聞き、聖霊を注がられる経験をし、さまざまなことによって神がともにいてくださるという啓示を受けていると確信しているからです。
ある牧師に出会って感激したからとか、誰かに勧められてなったのでもなく、ましてや自分から一念発起して、牧師になろうと思ったのでもなく、むしろ放蕩息子のような人間です。20歳の頃の私をよく知る連れ合いからは今でも牧師になっているのが信じられないと言われるほどの罪深い人間であるのは確かなことです。
初めて、私に神の言葉が臨んだのは、中学生の頃、夜中にトイレに行くために、家の外に出たとき、50m先に火の玉が飛んでいるのが見え、それと同時に、「お前は使命が与えられている」という声が聞こえてきました。
20歳の時、鹿児島県の枕崎から上京して、八王子にある会社に就職し、何らかのことで、柔道をやっていた同僚とケンカになり、彼が私の首を絞めて、気絶させると脅した時に、「お前は大きな仕事をするまで死なない」という言葉が聞こえてきて、そのことに勇気づけられて、やるならやってみろと言ってたら、相手は驚いて、私の首から手を離すということもあります。
弁護士になり、政治家になりたいという夢がありましたが、その夢が実現できることなど到底無理であることを悟る中で30歳の時、早稲田大学法学部を卒業する時に、不思議な経験を真剣に受け止める中で、神学校に進学し、牧師になりたいという志が生まれました。
その時、教会に通っていたのは、数回で、もちろん洗礼も受けておりません。大学3年の時、結婚していて、長男が生まれていた時期であり、キリスト教のキの字も知らず、教会のことなど全く知らなかった連れ合いには本当に申し訳なく、今日まで大変な苦労をかけていることに心苦しく感じています。
神学校に入る理由の一つに、自分が経験した不思議なことはどんなことなのか、真実なことなのかどうかを知りたいという思いもありました。
神学校を卒業して、最初の赴任地が東北の南相馬市にある原町教会で、10年在籍しました。未熟な者でたんさんの失敗をしましたが、教会員の方々は大きな愛の心で受け止めてくださり、成長を見守ってくださいました。このことがあったがゆえに、今日の私たちがあると思い、感謝しています。
ある日、布団から起き上がろうとした時、私の体にドドットという衝撃を感じるような何かの力が入ってきて揺さぶられ、それと同時に「ホサナ、ホサナ、ホサナ」という言葉が聞こえくるという経験がありました。
これらの不思議な経験のことをこの後も、原町教会から、保原教会そして津屋崎教会に転任していった時もずっと心に留めていました。もう一つ心にとめていたのがあります。それは、中学生の頃、有線放送から流れてきたニュースに、「アメリカにいる預言者が、将来世界が危機に陥る時が来るが、その危機を救う人が現れる。それは極東アジアに住む人で、1947年生まれの人である(ここは少しあいまいです)というものでありました。
津屋崎教会に在籍していた時、今から10年ぐらい前ですが、ある女性の教会員がかかっている病が医者からこれ以上良くならないということを聞いた時、不思議に私のほうから「祈らせてください」という言葉が自然と出ました。
この時、私は癒しを祈るとき、神に私が受けたさまざまな啓示が真実であるのなら、危機を救う人が私であるのなら、病いを癒してほしいと祈りました。そうしたらも2週間後に、その女性から、治りました。医者もどうしてなのか不思議がっていたということを聞きました。
この他にも、「インマヌエル」という言葉が私の脳裏に響いたり、枕元に、白い衣を着ている3人の人が立っているのが幻のような状態で見たり、預言者イザヤの主の僕に関する預言の言葉を読んでいるとき、心が熱くさせられるという経験もあります。
また他の方からは、私が礼拝の前講壇の上で祈っている時、後光が射しているのを見たとか、夢で私の家を訪問して、みすぼらしいの門の中に入ったら、星の数のよう数えきれない多くの子供たちがいたというのを見たというのを聞いています。
これらのを心にとめてきていましたが、最近、経験したことを証しすることが必要ではないか、しっかりと語らなければそのことは実現していかないのではないかというある人の言葉に背中を押される中で、今まで言うのに戸惑いがあり、憚る思いがなどが交錯していて、ちゃんと話してこない気持ちに区切りをつけて、言わなければならない、時が来たと思うようになりました。
語ることに恥ずかしさや、恐れがあり、気がくるっていると嘲笑されるかもしれないし、この先何も起こらなければ、茶屋は礼拝の説教の中で、偽りを述べたと激しく非難されるかもしれないという後ろ向きの思いを捨てて、何かが起きた時に茶屋はそのこと以前に語っていた、本当であったと思ってもらうためにも必要だと思い、時が来たという思いに固く立ち、このような証をさせていただきました。
この証で一番言いたいことは、生ける神は必ず私たち人間の危機を必ず救ってくださる。私たちが安心して生きていけるようにいつも配慮したくださる神が、歴史の主であり、創造主なる生ける神であり、その神が私たちと共にいたくださるというメッセージです。
2020年5月3日
題:私の主 私の神よ」 聖書:ヨハネ福音書20:24~29
「私の主、私の神よ」という言葉は、祝福されたペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白に勝るとも劣らない、核心をつく、決定的な、申し分ない、素晴らしい言葉です。
この心からの賛美、神を褒めたたえ、神の栄光を表す言葉を発したのは、12人の弟子の一人であるトマスです。
彼は、他の弟子たちから、「一週間前に、自分たちが部屋に閉じこもっているところに、復活された主イエスが現れた、主イエスは生きている」ということを聞いても、自分の目で見、自分の手で触って確かめなければ信じないと言っていたのでした。
疑っているトマスや他の弟子たちが集まっている部屋に、再び主イエスが現れるとすぐに、心をかたくなにしているトマスに、自ら近寄り、釘が打たれた手やわき腹をお見せになって、「信じない者ではなく、信ずる者になりなさい」と声をかけられます。
主イエスのトマスに寄り添う振る舞いには、どうしても信じてほしい。信じて救われてほしい。ぜひ幸いを得てほしいという願いがどんなに強く、大きくて、深かったことかと思わさせられます。
主イエスの幸いになってほしいという願いが特別なものであった理由の一つが信ずることによって得られる恵みがこの世で経験する幸いとは全く異なるもの、他のことによっては得られない特別な幸い、つまり神が与えてくれる幸いであるからかもしれません。
主イエスが死んで復活され、生きていることを信ずる信仰によって、ただ信ずることによって得られる神からの特別な幸いの一つは、人間を脅かし、恐怖を与え、絶望させる死などのこの世の力に勝利し、支配している方こそ、生ける神であり、大いなる、創造主なる、愛と慈しみに富む神に守られていることに気づかされ、そのことによって、人智を超えた平安や喜びや希望が得られる恵みです。
2020年4月12日 イースター礼拝
題:希望の確かな根拠 聖書:ルカ福音書24:1~12
新型コロナウィルス感染拡大による深刻な影響が世界中に広がり、150万人以上の人が感染し、10万人以上の人の命が奪われるという悲しい状況が生まれ、不安や恐怖が世界中に広がっています。
この恐怖に虚しくなり、希望を失い、どうすればよいか、この後どうなっていくかかが分からない苦悩が生まれていますが、このような危機は、日々変わらない私たちの現実でもあると言えます。
この危機に対して、聖書は、神からの答えが示されていると訴えています。それはイエスの復活である。すなわち、第Ⅰのペトロの手紙にある「神は、死者の中からのイエス・キリストの復活によって生き生きとした希望を与えている」という言葉にあるとおりです。
復活は死に勝利し、この世のあらゆる力を支配していることを表す出来事であり、復活こそ希望をもたらす確かな根拠であり、この業を行った神にこそ希望があり、人間の力には決定的な希望はない。
科学の進歩はすごいものであり、月にまで人間を送り込む人間の叡智は大きいけれども、しかし人間の力は万能ではないし、不完全だし、破れがあるし、確かな希望の根拠にはなりえないし、コロナウィルス感染への人間の無力さはそのことを如実に示している。
私たちが恐怖から解放されず、希望を喪失しているのは、神に信頼せずに、人間に頼っているからであり、厳しい現実に圧倒されて、神が見えなくなっているからである。
ハンセン病という過酷な厳しい苦難の只中で、偉大な生ける神に信頼し、復活の信仰に生き、さまざまな苦難に耐え、恐怖を乗り越え、喜びや平安そして愛に生き、希望をもって生きている人たちが証しているのは、自分の罪に気づき、悔い改め、贖われ、赦され、神との和解が生まれ、神とつながることによって、イエスが復活して生きておられることをおのずと信ずることが出来ることです。