牧師の独り言

 

   光は闇の中で輝く

 

 新たな年を迎えて、皆さんはどんな思いで過ごされているのでしょか。

 

 皆さんの中には、心が新たになれずに、重たい思いを引きずって、新年を越している方もいるに違いありません。

 

そう思うのは、昨年の衆議院選挙での三分の二以上の改憲勢力の出現やハト派であるはずの岸田首相が豹変して、積極的に改憲することを主張している状況などがあり、平和の光である9条の輝きが消えて、闇が覆っていくのではないかという不安や恐れが生れているからです。

 

そもそも、光は闇の中でこそ輝くはずだし、実際にこの75年余りの歴史を見れば、まさに闇が深まれば深まるほど、満身創痍ながらも、歴史の神によって与えられている9条の光はその輝きを増して、平和の砦としての役目を果たしてきていることにしっかりと思いを向けて、明るい気持ちと希望という意志を持つことが肝要なことではないか。

 

最近、明るい気持ちと希望という意志を持たせてくれる一冊の書物に出会いました。それは、日本学術会議の名簿から除外された6人の一人である、東大教授の加藤陽子さんの「この国のかたちを見つめなおす」という書物です。

 

加藤氏は、現在の日本の深刻な問題は、決断にたけた政治家の不在ではなく、政治の不在であることを指摘しつつ、任命拒否についての政府の説明に納得できない人が57割いることや脅迫の手紙が2通であったが、約50通の励ましの手紙が来ていることなどを紹介して、このことは個人が政権からある意味「弾圧」や「批判」された時、民主的な社会で(民主主義社会の危機が言われているところもありますが)、なぜこれが起きたのか、政権の意図は何なのかを、知りたいと考える人が少なくないことを表していると理解して、私はこの国民世論のまっとうさに信を置きたい、と語っています。

 

此の言葉に明るい気持ちや希望という意志を抱くのは私だけでしょうか。いずれにしろ、憲法改正は国民投票によって決定されます。「私はこの国民世論のまっとうさに信を置く」と多くの人が思えるような社会のために、黙々と声をあげ続けていた玉井史太郎さんに見習って、諦めずに、国の安全と国民の命を守ることを大義名分とした軍部が国民を存亡の機に陥れる事態を再び起こすことが出来ないようにするための9条の意義、武力によらず外交によって平和を実現する9条の意義を訴え続けていきましよう。

             わかまつ9条の会 会報巻頭言   2022.1.14

 


 

 

 

      9条は輝き続けていく    茶屋 明郎

 

 9条の輝きに危険信号が灯ったと思わせることが、この度の衆議院選挙の結果によって、つまり国会において改憲勢力が憲法改正に必要な数の3分の2を超える結果によって起きています。

 

 この先、9条はどうなっていくのかと不安や恐れを抱き、絶望したとは思わないまでも、危機意識を高めている方も多くいるに違いありません。

 

 いうまでもなく、諦めてはならないし、諦めずに、声を上げ続けていくことが必要だし、声を上げ続けていくそのことが希望につながるし、ここが踏ん張るどころであり、正念場であり、ピンチはチャンスでもあり、この危機を乗り越えて行ってこそ、平和憲法が私たち国民により広く、深く根付き、確固たるものになっていく機会になると理解して、どんと構えて、迎え撃つ思いをもって、望みをもって、なすべきことを働きかけてしていくが必要ではないかと思っています。

 

 私たちキリスト者が平常心をもって、望みを抱いて、9条を輝かせる働きに関わっていく責任を担っていくことが出来るためにどうすればよいか、責任を果たしうる力と知恵が得られるみ言葉にどんな言葉があるのか。

 

 一つは、パウロが、私たちは落胆しないと語っている箇所のところで、述べている「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからである」という言葉です。

 

 この言葉は次のように理解できます。すなわち、栄枯盛衰という言葉がある通りに、この世の出来事は、人であり、国であれ、栄えたり、衰えたりして、移り変わるものであり、確かなものではなく、いつかは消えていくものであるから、見える現実を軽んじたり、無視したりはならないが、しかし、その見える現実に一喜一憂することは賢明ではない。

 

 賢明なのは、変わらず、確かであり、信頼できる、永遠に存続する見えないものに目を注ぎ、生きる土台に据えることであるし、そこにこそ、心が折れたり、絶望せずに、そうではなくて、望みをもって、9条を輝かしていく働きを担う責任を果たせるのではないか。

 

私たちキリスト者は、預言者やイエス・キリストを通して、永遠に存続する見えないものは生ける神であり、生ける神は無から有を生じさせ、不可能を可能にし、死んだ者に命を与えることが出来、私たち人間の生活や歴史に介入し、支え、導いている、すべてを支配している方であり、この世に平和をもたらす神の国の実現のために日々働いていることを信じています。

 

此の信仰から、9条は、どんな危機があっても、それらを乗り越えて、輝き続けていくという確信が生まれるのではないか。私自身はそう信じています。盲信だという声が聞こえてきそうですが。

 

確信の根拠は、9条は、これまでの人間の歴史の反省から生まれている英知であり、真理であり、真理は最後に勝利するということもそうですが、私自身が抱く確信は9条は歴史を支配している生ける神が平和をもたらす神の国を実現するために与えて下さったものとして理解し、信じていることから生まれています。

 

此処から、9条の輝きは消えることなく、輝き続けていき、世界平和のために貢献するという望みが生まれます。ここに固く立つことが出来るかどうかが問われている。

    「キリスト者・9条の会」北九州  会報  2021.11月   巻頭言


 

 

 

   「私たちが変える」

 

                        茶屋明郎

 

人事などの権力を使って、首相という絶対的権力者に登りつめた菅さんが、その権力が諸刃となり、引きずり落とされる禍の力と働き、一年前の輝かしい時は、はかなく消えて、四面楚歌のような状態で、見る影もないような落ちぶれた姿で政治の舞台から消えていきました。

 

自民党内のコップの中での権力闘争に勝って、首相になったのは、国民人気の高い河野さんではなく、地味な、ぱっとしない岸田さんでした。

 

自民党役員や内閣の顔ぶれを見ると、他の人たちも批評しているように、身内だけのことに関心が強く、国民への関心は弱いと言えるし、これまでの安倍・菅路線から抜け出ていないし、ただ顔だけが変わっていて、中味は少しも変わっていない。

 

警戒しなければならないのは、安倍さんが言っているように、憲法を改悪し、戦前の日本に戻ろうとする保守的な人達が元気になっていることかもしれない。

 

いずれにしても、総裁選挙において、多くの候補者が、自民党を変えたい、強権政治ではなく、ごまかしやウソのない政治、国民によりよく耳を傾けていく政治を心掛けたいと訴えていたが、これまでの流れを見ると、それは掛け声だけにとどまり、中味は全く変わっていないことが透けて見えてくる。だから自民党政権には何の希望もないし、自民党政権を変えなければ、国民のための政治、平和憲法を活かす政治は実現できない。

 

今、自民党政権を変えることが出来る状態にあるのではないか。少なくても、1031日に行われる衆議院議員選挙において、その足掛かりをつかむことが出来る状況にあるのではないか。

 

「市民連合」による働きかけにより、野党間の政策の合意や選挙協力が進み、小選挙区での一本化が整っていると聞きます。また前回の衆議院議員選挙において、自公の投票率よりも野党間の投票率は勝っていたと言われています。今回は前回よりも私たちにとってはよりよい状況にあります。ですから、自民党政権を引きずり落とし、野党間での政権誕生も遠いことではありません。

 

このことが実現していくかどうかは主権者である私たち国民がどのように行動するかです。変えられるかどうかは私たち次第です。私たちが変えなければならない。私たちが変えることが出来る。変えることが出来るのは、主権者である私たちに責任があります。

 

諦めずに、希望をもって、一緒に頑張っていきましょう。

      わかまつ9条の会 会報  巻頭言  2021.9

 


 

    わかまつ9条の会代表就任挨拶    2021.4.9     茶屋明郎

 

 この度、玉井史太郎さんの後を受けて、代表になりましたので、一言ご挨拶を申し上げたいと存じます。

 

 200411月に発足して16年の長きにわたって、9条を守り、平和憲法が生かされ、日本が再び戦争する国にならないようにという活動が他の世話人や会員と共に続けられてきているのは、代表の玉井史太郎さんと事務局長の小野逸郎さんの二人が中心になり、また、お二人の大きな熱意と力強い指導のお蔭であると思い、お二人に心からの敬意と感謝を表したいと思います。

 

 これまで精力的に活動してきたわかまつ9条の会の働きを代表として担っていくことに、非力な者である私は、戸惑いと不安を感じますが、皆さんの協力を得ながら、心を込めて微力を尽くしていきたいと思っています。よろしくお願いします。

 

 安倍さんの改憲したいという野望が見事に打ち砕かれ、挫折して、私たちの中に、少し安堵した思いが生まれているところがあるのかもしれませんが、しかしそれは本当に危険だし、菅さんの方がむしろ手ごわいかもしれないし、油断は禁物です。

 

 9条の会が、昨年の9月に「安倍政権の終わりと改憲問題の新しい局面を迎えて」と題する声明を出して、自衛隊をアメリカの戦争に加担させようと圧力をかけてきたアメリカや右派勢力や軍事産業の存在がある限り、安倍首相が辞任したからといって危険がなくなったわけではないと警告しています。

 

 警告しているように、菅政権も、専守防衛という憲法の理念をないがしろにし、「やられる前にやってしまえ」という発想がある「敵基地攻撃能力」を保有するために着々と動いている、恐ろしい状況は続いています。

 

 今、9条を含む日本国憲法の改定阻止と平和を求める世界の市民と手をつなぐために、憲法9条を激動する世界に輝かせたいという目的を実現させていく正念場であるのかもしれません。

 

 私たちに求められることは、発足した当時の熱き想いを持ち、主権者としての意識を研ぎ澄まして、国をよくするのも悪くするのも最終的な責任は私たち国民にあることを強く自覚し、本当に、人民の、人民による、人民のための政治を大切にする政治家を応援し、

 

世界の宝である憲法を持っている責任をよりよく自覚して、国の内外を超えて世界平和のために微力を尽くしていきたいという思いを忘れないことかもしれません。

 

 9条の会の呼びかけ人の一人であった、加藤周一さんが、日本を一つにできるのは日本憲法である。様々な違いを超えて共に生きる世界に貢献できるのが憲法であると仰った言葉のように、わかまつ9条の会も思想、信条、宗教などが違う人達が集まって活動しています。どうぞ積極的にかかわってくださるひとが一人でも多くでることを願って、挨拶とさせていただきます。よろしくお願いします。

 


 

  神の国が来ている

 

      マルコによる福音書114節~15

 

              

 

コロナ禍のこの一年は、不安や恐れを感じ、悔しい思いや悩みを抱きながらの日々でした。ワクチン接種の実現という明るいニュースがありますが、感染の不安や恐怖は消えることはないし、いつ終息するのかは見通せない中で、失望する思いに勝る望みを抱くことが難しくあるように思います。

 

このような中で問われていることの一つが、私たちが希望のともし火をともし続け、勇気をもって福音を伝える宣教の使命を十分に果たせることができるかです。

 

「九州教区通信」337号の巻頭説教の中で、多田礼一教師が、おびえて洞窟の中に隠れているエリヤを引き出し、派遣させる力となった「神のささやく声」に耳を澄ませようという勧めがありましたが、私たちは「神のささやく声」の一つを、主イエスが伝道開始の時に宣教した「神の国は近づいている」という言葉として理解します。

 

なぜなら、私たちは「神の国は近づいている」というメッセージに、不安や恐れが取り除かれ、安心できる思いが与えられ、分離と排除の社会に和解と連帯をもたらし、様々な違いを超えて、共に生きる平和な社会を築くことができる力と命があると信ずるからです。

 

主イエスは、メシアの使命を果たすための具体的なことを預言者たちのメッセージに確信を得て、「神の国は近づいている」という言葉を語られたのではないか。

 

神の国とは、神の支配のことであり、主イエスは、悪霊を追い出す業を通して、神の支配がご自分を通して、この此岸においても実現していると確信して、み国が来ますようにと祈ることを命じられています。

 

この世に様々な苦難や試練があり、ホロコーストなどの残酷な悪の力があり、自然災害やコロナ禍などの禍があっても、この世は何か不気味な力、悪霊のような目に見えない敵によって支配されてはいずに、それに勝る大いなる力が、つまり見えないけれども、創造主なる、永遠なる、死んだ者に命を与えられる全能の愛に慈しみにあふれる神が、私たちの味方となり、共におられる生ける神が私たちの歴史を支配していることを主イエスは語り、ふるまい、十字架の死と復活の出来事を通して、はっきりと証しされています。このことを原爆投下によって多くの人たちが一瞬にして命を奪われた瓦礫の中で、ささやく声が聞こえてきて、救われた節子・サーローさんや実話映画「戦場のピアニスト」の奇跡的に助けられたユダヤ人ピアニストの生きざまを通して確認できます。
 主イエスは、「神の国はあなたがたの間にある」と仰っています。このことは次のように理解できるのではないか。つまり神の支配は贖罪愛によってあなた方の心の中に来ているが、それがすべてではない。パウロが言っているように、贖罪愛による救いは自分の中にとどまる思いを打ち破り、他者を見出し、他者と共に生きようとする命が生まれ、皆キリストによって一つの体であり、皆がそれぞれ人種も民族も宗教も違うけれども、みな贖われている一人一人であり、キリストにあって一つになる共同体が神の国であり、教会が神の国でもないし、キリスト教にすべての人に改宗することでもない。

 

ここに固く立つためには、ただ先に信じているだけであり、信じないで人たちもすでにキリストの救いに預かっているという信仰が必要になる。

 

神の国が来ているという信仰によって、私たちはさまざまな苦難や恐れに勝ち得て余りある恵みに生き、苦しみが苦しみで無くなり、恐れが恐れで無くなり、コロナに感染するのではないかという恐れの思いよりも、かからないですむのではないかという望みの思いが勝り、さらに感染しないのだという確信が生まれるのではないか。ここにしっかりと固くことが大事であり、ここに私たちの使命があり、ここに望みがある。

 

この世を支配する神は、コロナ禍という未曾有の危機のただ中にある今、苦難の中で救いの力を発揮される生ける神は行動を起こされ、必ずその栄光を表し、平和をもたらす神の国を実現させてくださるのではないか。カイロスという特別な時である、神の国が来る時が今来ているのではないか。

                                              九州教区通信原稿  2021年3月号

 


 

 

  初 夢                  茶屋明郎

 

2021年が明けました。

 

コロナ禍の中での新しい船出で、この先どうなっていくのか不安や恐れが付きまとい、

 

希望という光が見えにくくはありますが、このような中にあっても、皆様は新たな思い

 

をもって歩みだしていることと思います。

 

ところで、皆さんの初夢はどんなものなのでしょうか。

 

 今、私は、自分の初夢を皆さんにどうしても知らせたいという衝動に駆られていまして、

 

厚かましいとは思いますが、皆さんにとってはどうでもよいことかもしれませんが、我慢して、つたない私の夢に心を向けてもらえたらと願っています。

 

 一つの夢は、被爆者の人たちが中心になって活動してきて、国連でも採択され、法的な効力を発するために必要な数の国・地域の批准がなされて、122日に世界において実際に実効することになる核兵器禁止条約を日本政府も圧倒的な世論の力に押されて、承認せざるを得なくなり、被爆者の方々の悲願が実るというものです。

 

 二つ目は、沖縄の人たちが中心に活動してきている辺野古に軍事基地を造らせないという運動が沖縄県外の人たちにも多く広がり、辺野古が環境に甚大な悪い影響を与えることや地盤が柔らかくて、基地を造るに適切でないことが明らかになり、反対の世論の意見を重くうけとめざるを得なくなり、自民党政権が断念せざるを得なくなるという夢です。

 

 三つ目は、アメリカにおいて選挙において政権を変えることができたということで、私たち国民の多くが刺激され、世論も高まり、菅内閣の支持率がさらに低くなる中で行われる、秋までに行われる衆議院議員選挙において、当選した自民党と公明党との議員の数が憲法改悪に必要な三分の二に至らず、また過半数までにも至らず、政権を維持することができず、市民連合などの悲願である野党勢力が政権を奪い取る。そこまでいかなくても、少なくとも、そのあしがかりをつかむことができるという夢です。

 

 私がこの夢を抱き続けていくことに当たって、心がけていることは、被爆者の方々や沖縄の方々の活動に関心を寄せ、できることで、関わっていくことであり、今度の選挙において、日本国憲法の趣旨である、平和主義、基本的人権の保障、主権在民そして世界の人々や国々と協調していく普遍主義を尊重し、守ると主張している人に投票することです。

 

 最も大事にしていることは、希望を持つこと、決してあきらめないことです。希望となる根拠の一つが、世界の宝である日本国憲法は、偶然に与えられたものではなく、必然であったということです。つまり、押し付けられたものであるとか、そうではないとか言われていますが、真実は、井上ひさしさんが言っているように、歴史が人類に与えたものであること、別な言葉でいえば、人間の歴史の中で地下水のように流れている大きな力によって押し上げられて与えられたもの、キリスト者である私の言葉でいえば、歴史を支配している、生ける神によって世界平和を実現する手立てとして与えられたものであることです。ここにこそ確かな希望があり、これこそが初夢の根拠でもあります。

 

 皆さんの初夢が正夢となりますように祈っています。

                                                     2021年1月14日    わかまつ9条の会 会報

 


 

 

 

 新型コロナウイルス感染拡大によって、若松教会創立130周年記念礼拝及び記念講演会を計画通りに開催できなくなり、本当に残念に思い、悔しくありました。

 

 ただ予定していた510()に、130周年記念礼拝として、感謝の思いをもって守りましたが、毎週出席している人の半分ぐらいの人たちが出席できず、申し訳なく思い、寂しくありました。ただ、若松教会以外からも数名出席してくださり、一つの区切りをつけることができたと思って、ホットしています。

 

 今、感染の影響により、毎週出席していた方々の何名かが来れなくなっていることに対する配慮と牧会をどのようにすればよいか苦慮しています。

 

 4月に2回休んだだけで、礼拝は今日までずっと守ってきています。その中で、近くに住む男子大学生が礼拝に出席するようになり、休まずに守ってきてよかったと感謝し、喜んでいます。

 

 見えない脅威である新型コロナウイルス感染拡大が私たち人間生活に大きな影響を与え、深刻な不安と恐怖を与えて、危機的な状況を起こしています。このことで、感染症への認識を深めることができていると共に感染症の脅威に立ち向かい、絶滅させる有効なワクチンをつつくだすことができていない厳しい現実が突き付けられていて、科学万能というのは神話であり、むしろ人間の力の限界と無力さを表しているという見方ができるに違いありません。

 

 ある人の「恐ろしい新型コロナウイルス感染拡大に対して、この危機は私たち人類に対して、何かの問いかけが示されているのではないか。人間としての原点に返ることを考えなければならないのではないか」というコメントに目がとまりました。

 

 この問いかけは、今日まで何回となく、東日本大震災などの自然災害を通して聞くことができたはずだけども、しっかりと真摯に向き合ってきてなかったと言えるのではないか。

 

 人間としての原点に返ることの一つが、人間の力の限界と無力さに気づき、真摯に向き合い、傲慢な思いを捨て、謙虚に生きていくことであり、皆同じ人間であり、弱い存在であり、さまざまな違いを超えて、皆尊い存在であると認め合い、共に生きていくことではないか。

 

 傲慢さを捨て、謙虚になるためにも、真に畏れるべき方を畏れることであり、今の時代こそ、このことが一番無視されていることはないのではないか。

 

 今、私たちキリスト者に問われていることは、真に畏れるべき方であるイエス・キリストの父なる神に戻ることを宣教していくことではないか。

 

                  202097日  地区通信原稿

 


 

 

 

 似て非なるもの

 

       ―緊急事態宣言と緊急事態条項―

 

                       

 

  126日に日本国内においては最初の感染者が確認されてから5ケ月が過ぎ、71日現在、感染者総数は約19,000人、その中で亡くなられたのは、1,000人近くになっていて、全国の大部分は第一波は収まりつつありますが、東京都や一部の県ではまた少し増えつつあるようです。

 

 最初に感染者が確認された日から1ケ月後の228日に、鈴木直道北海道知事が、発した「緊急事態宣言」という衝撃的な言葉を耳にして、驚き、途方に暮れ、不安を募らせた人も多かったに違いありません。

 

 緊急事態宣言そのものは法的根拠に基づくものではなく、自粛を求める要請でありますが、実際には事実上は法的拘束力を持つのと同じになって、秩序や協調性を重んじる国民性もあり、同調圧力も働き、自粛が過度に強くなり、さまざまに不自由な思いを感じ、仕事ができなくなったりするなどの生活不安、集会や表現の自由などの基本的人権が脅かされるなどの恐れを感じさせる大きな影響が出ています。

 

 懸念されることの一つが、自粛要請という状態においでさえも、市民の間において、「マスク警察」と言われるような人が現れて、他の人を監視し、避難や攻撃をしたり、非国民呼ばわりして差別したりする由々しく、恐ろしいことが起きていて、法的根拠を持つ「緊急事態条項」が実施されたら、さらにひどくなるのではないかという恐れです。

 

 さらに大いに懸念されることは、自粛要請である「緊急事態宣言」での状況を見て、「緊急事態条項」を憲法を改正して、導入しようと目論んでいる安部さんや自民党はほくそ笑み、時期が来た、土壌が生まれた、正当化できる道が開かれたという思いを(幻想でしかない)強く抱いたのではないかということです。

 

 このことが、「火事場泥棒みたいだ」という非難を受ける中で、安部さんのみならず、自民党の有力者から次々とこの件を大事な課題として論議していくべきだという発言となって出てきています。

 

 人権を守るためにある「法の支配」を否定する「緊急事態条項」についての世論調査が色んなところで行われていますが、6月初旬に行われた時事通信の世論調査では、反対が55%と賛成が41%になっていますが、NHKでは賛成が半数を超えて、法規制を望む人が多くなっているという驚くべき統計も出ています。

 

 このような中で、私たちに求められているのは、「緊急事態条項」を正しく理解し、行動していくことではないか。

 

 そもそも「緊急事態条項」とはどんなものか。それは、「緊急事態宣言」と「緊急事態条項」とは似て非なるものであり、日本憲法とは相いれないものであり、憲法精神そのものを否定し、もし、憲法の条文に入れば、「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」が有名無実化され、骨抜きにされ、無きに等しいものになると同時に、憲法学者の木村草太氏が指摘しているように、三権分立が機能しなくなり、すべての権力を総理大臣や政府が握るという独裁国家になっていくものです。

 

 このことを危惧した、約70年前に憲法が制定される当時の金森国務大臣は、国民の権利擁護のためには、非常事態に政府の一存で行う措置は極力防止すべきであり、他の立法措置で対応することができるなどの理由から導入しないことを決めています。

 

 憲法学者の芦部信喜氏も、「非常事態において、国家の存亡を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限」として説明し、そもそも人間を守るものではないということです。

 

 このことは、実際に歴史において起きています。例えば、ドイツでのヒットラーの独裁政治によるさまざまな人権の弾圧と迫害そして殺害という痛ましい出来事や日本においても、大日本帝国憲法下で80回も緊急事態条項が発せられていて、戒厳令や治安維持法によって大逆事件などが起き、自由を叫ぶ人達や弱い立場に置かれている人たちも簡単に拘束し、虐殺しているという闇の時代があり、また私刑リンチみたいな形で、市民が朝鮮人を虐殺するという悲惨な恐ろしいことも起きています。

 

 皆さんの中にも、国民の権利を制限することになぜそんなに熱心なのかという、なぜそれを望むのかという思いを持つ人も少なくないのかもしれません。

 

 一つ思うに、人権感覚の問題があるように思います。つまり、人間の尊厳さや人権の大事さを理解できる意識が欠け、他人の悲しみや苦しみを自分のことのように受け止めて、共感する力がなく、自分自身も被害者になりうるという想像力が欠けていることです。

 

 この感覚が全くないのが、人知を超えた存在に対する畏れを欠き、謙虚さを失い、嘘をつき、国政を私物化している傲慢な安部さんであるし、この人にこんな恐ろしい力や権力を与えることは絶対許さないと思う人もかなり多いです。

 

 いずれにせよ、私たちに問われていることは、「緊急事態条項」を正しく理解し、自らが人権感覚を磨き、豊かにし、反対の声を上げ、行動を起こしていくことではないか。

 

私たちには希望があります。一つは「検察庁改正案」に反対して廃案にすることができたように、小さな力でもたくさん集まれば、大きな力になり、世を動かすことができることを経験できたことです。

 

もう一つは、そもそも日本国憲法は偶然に生まれたのでもなく、人間の力を超えた、人間の歴史の中で、地下水のように流れている大きな力によって生まれたものであり、ちっとやそっとで亡きものにすることはできないと理解し、そこに希望があり、そしてそれぞれが自分ができることをしていく、そのことも希望になると思います。

 

あきらめずに、手を取り合って、平和な社会を守ってために頑張っていきましょう。

                                                                                                                              2020年7月9日

                                                         わかまつ9条の会 会報


          真に畏れるべき方を畏れる

 新型コロナウィルス感染が猛威を振るい、今日現在(2020,4,18)200万人のこ人が感染し、10万以上の人が命を奪われるという傷ましい、嘆き悲しむ出来事が起き、世界中の人々に恐怖と絶望をもたらしています。

 命を死に至らせる、恐ろしい見えない敵になすすべもなく、先が見えない中で、仕事もできなくなり、生活が厳しくなり、安心や希望が無くなり、経済や社会の基盤が崩壊寸前の恐れも出てきて、生きいてく環境が脅かされるという危機を迎えています。

 このような中で、命がけで献身的になって医療活動に従事している医師や看護師さんなどの医療従事者に心から感謝をいたします。そして亡くなられた方々に哀悼の思いを表し、遺族の方々の苦しみや悲しみが少しでも癒されるように祈ります。また感染されて、病と闘っている人たちが守られ、一日も早く退院されるようにお祈りします。

 恐ろしい新型コロナウィルス感染拡大に対して、この危機は私たち人類に対して、何かの問いかけが示されているのではないか、人間としての原点に返ることを考えなければならないのではないかという、ある人のコメントに目が留まりました。

 私たち人間は一人では生きていけないし、弱い存在であり、共に助け合い、協力しあって生きていかなければならないし、国や信条そして宗教などの違いがあっても、皆同じ人間であり、尊い存在であり、違いを超えて、共に助け合い、協力していかなければならいし、特に弱い立場に置かれている人たちに寄り添って生きていくことが人間としての原点であるという理解ができるに違いありません。

 現実はそうではない。自分だけが正しい、自分たちの考えや思想が正しい、自分たちの国や民族こそ尊い存在であるというゆがんだ自分優位の考えに固執し、他者を排除し、分離し、差別している由々しき状況がはびこっているのが現実であると言っても過言ではありません。

 この由々しき現実の背景に、謙遜さを失い、おごり高ぶっている、傲慢な考えがあると言えるし、そうなっているのは、真に畏れるべき方を恐れないで、人間の無力さを忘れていることがあるのではないか。

 恐ろしい新型コロナウイルス感染拡大を許し、その脅威に立ち向かい、絶滅させる有力な手立てを見出せないでいる現実が人間の限界と無力さを表しているのではないか。

 このことに気づき、見えない味方であるところの真に畏れるべき方を畏れる生き方にこそ人間としての原点に戻ることができる道が開かれ、虚しさや恐れから解放されて、苦難や危機を乗り越えていく知恵と力が与えらていくのではないか。

   見えない味方であるところの真に畏れるべき方である神は死人の中からイエス・キリストを復活させられた、死に勝利し、この世あらゆる力を支配してあられる創造主なる生ける神であり、憐みに富み、罪人である私たちを赦し、命をもたらす方です。

 「時」が来れば、生ける神は、コロナウイルスと闘っている医療従事者の働きや自粛などして立ち向かっている私たち人間の努力を用いて、祝福し、必ず恐れるべきコロナを絶滅させてくださり、元の安心して、喜んで、希望を抱いて生きることが出来る世界を実現してくださると信じています。

 「真に畏れるべき方の元に帰りましょう!」

 あきらめずに、恐れずに、絶望せずに、希望をもって、このしんどくつらい時に負けずに、明るく笑顔を忘れずに生きていきましょう。

                              2020年4月18日


 

   中村 哲さんを偲んで

 

    ―崇高な志を実際に行動に移し、実現できた稀有な人―

 

                     

 

 「巨星墜つ」という言葉を思い起こさせるようにして、中村哲さんは日本のみならず、世界中の多くの人たちから惜しまれるようにして、亡くなられました。この死はあまりにも突然であり、思いがけないことであり、どんなに多くの人が大きなショックを受け、深く嘆き悲しんだことかと思います。

 

「憲法9条を守ろう」という運動に関わっていて、中村哲さんを支えにし、励ましにし、目標にしていた私たちも、その悲しい知らせに絶句してしまいました。

 

 私は二度身近に接した時がありますが、その時感じた中村哲さんの印象は意外に思うものでした。なぜなら、国会に証人として呼ばれたとき、並み居る傲慢な政治家や権力者たちを前にして、「武器よりも命の水をアフガンに」と厳しく訴えた剛毅ある姿や他者のために命を懸けて大きな愛をもって生き生きと精力的に働く力強くタフな姿は見せずに、穏やかで、口数の少ない姿であったからです。

 

 最も驚きをもって感じた印象は、謙虚な姿でした。ノーベル賞候補者になるぐらいに、多くの命を救うという、だれもが真似できないすごく大きな働き、崇高な生き方をしているのに、もっと大きな顔をしてよいと思うのに、それとは真逆で、本当に腰を低くし、謙虚そのものの姿に驚きました。

 

 この勇気、愛、謙虚という崇高な生き方を中村哲さんはどうやって身につけられていたのか、その一つは、キリスト教信仰からくる、真に畏れるべき方を畏れるという考えではないかと思うし、この真に畏れるべき方を畏れずに、ただ自分のため、自分が一番、自分を守るためにはならどんなひどいことでもやってしまう、傲慢な心をもっている、今の世の私たちがもっとも学ぶべきことできないか。

 

 崇高な生き方をした中村哲の死に直面して、なぜ、どうしてという思いを拭いきれない人が数多くいるのではないか。しかし、そのような中で、中村哲さんの生き方に光が当てられて、自分の生き方を反省させられ、このままではだめではないか、何かしたいという願いを持つ人が数多くでているように思います。

 

このことを聞いて、私は聖書の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」という言葉を思い出して、中村哲さんの死は決して無駄になっていないと思い、私自身も9条を守ろうという働きに取り組む決意を新たにすることが出来ました。

                                                 2020.1.23   わかまつ9条の会  原稿

 


 

 

 

      わかまつ9条の会 会報原稿   2019109

 

 

 

     即 位 礼・大 嘗 祭

 

       -どう読み、どう解き、どう対峙すべきかー

 

                        世話人  茶屋明郎

 

 

 

 皇室に対して良い印象を持っている人の割合が、国民の約80パーセントであることがマスコミで流れ、上皇夫妻を始めとする皇族方の人間性のすばらしさに感激している国民が数多くいると言われています。

 

 このよう中で、安倍政権は、即位礼を国事行為として行い、大嘗祭を皇室費から支出して行うのは憲法に違反し、政教分離の規定を反故にする重大な間違いであるという意見が多くの専門家や国民から出ているのに、耳を傾けることなく、また皇室の中からも反対意見が出ているのを無視して、強行しようとしています。

 

 違憲であることが指摘される中、尊敬できる皇室への思いや憲法を尊重するという天皇の発言に信頼を寄せ、象徴天皇制の下であるから、戦前の天皇制に戻ることはないと考えて安心し、心配することなく、ましてや危機を感じることもなく、即位礼や大嘗祭の儀式を快く受け入れて、喜んで待ち望んでいる人がたくさんいるのかもしれません。

 

 霧の中にいると知らないうちに身体が濡れている事柄のように、皇族の人たちの人柄と天皇制とを本来区別して考えなければならないのに、区別できずに、あいまいになり、重なるようになり、象徴天皇制が疑似天皇制に変わり、戦前の天皇制になり、国家統制・管理が社会の隅々まで及び、平和憲法が骨抜きにされ、自由や人権がなくなり、9条を守ろうと意見や行動ができなくなり、戦争できる国づくりが実現するという悪夢を心に抱くのは私だけでしよぅか。

 

 この悪夢が杞憂となり、単なる夢で終わってほしいと願っていますが、しかしそんなに楽観することが出来ないのではないか。なぜなら安倍政権はさまざまにうまく工夫をし、巧みに行動し、なりふり構わずに、平気でうそを言い、ごまかして、着々と実現向けて、ことを進めていて、その一つが即位礼・大嘗祭であると思うからです。

 

 即位礼・大嘗祭が違憲であると指摘する専門家の意見は下記の通りです。

 

  1. 即位礼は国民主権に違反する。なぜなら、即位礼は、天皇が高見座に座り、勅語として、天皇が言葉を述べ、その言葉を下に下がっている総理大臣が聞き、応答するという儀式で、まさに主権在民という現憲法の趣旨に反することになるということです。

  2. 大嘗祭は政教分離に違反する。なぜなら、この儀式は宗教儀式であり、国家が宗教に関与してはならないという憲法の規定に違反する。安倍政権は大嘗祭は習俗であり、宗教ではないとごまかしているが、しかし、実態は紛れもなく、宗教儀式であり、つまり、天皇が神になる儀式であり、この天皇家の私的な宗教儀式を国家が行うことになるから憲法に違反しているということです。

  3. 天皇も人間であるという人間宣言をしているはずなのに、天皇が神となるとなる儀式である即位礼、大嘗祭を行うことは矛盾している。

  4. この儀式は天皇が支配し、国民は服従するという体制を造るものであり、ビラミッド型の社会構造となり、国民の自由や尊厳さが奪われ、差別や偏見を生み出すことになる。皆同人間であり、尊い人格を身に着けている存在であり、皆平等であるという憲法の趣旨に違反している。

  5. 天皇制は八紘一宇という思想の下、日本を特別な国として位置づけ、他の国々を制覇し、支配して、天皇の中心にする世界を実現するという恐ろしい考えがあり、おのずと軍事国家が形成されることになります

  6. 最大の恐ろしい問題は、神話である儀式をさも歴史的史実であるかのようにみなす時代錯誤的なやり方で、その儀式を国家が利用し、天皇制を作り上げ、平和主義 国民主権、基本人権の尊重という理念を破壊しようとしていることです。

 

 

 

これらの悪夢を実現させないためには、即位礼・大嘗祭を私たちはどう読み、どう解し、どう対峙すべきかが問われているように思います。

 

15年前に9人の人たちによる「9条の会」が発足し、全国の各地にも広がり、多くの人たちがこの運動に参加し、今日まで、大きな影響を与え、平和を守る砦の一つになってきていますが、これからは、天皇制の課題も視野に入れながら、9条を守り、平和憲法を維持していくために闘っている人たちと連携し、特に差別や偏見を受けている弱い立場に置かれている人たちとの連携を密にする、ネットワークを作り、幅広い運動を展開していくことが肝要であるように思います。

 

最後に、おごるものは必ず滅びるという歴史の真理と、9条こそ平和を実現する真理であるところに固く立ち、真理は必ず勝利を収めるという固い信念をもって、安倍政権を倒すまで最後まであきらめないで、運動を続けていきたいと思います。

 


 

   天皇代替わりと大嘗祭

 

     ―目を覚まし、耳をすまし、知恵をさとくー

 

 新元号の発表や、天皇代替わりや大嘗祭への政府の取り組み、マスコミや人々の対応を見て、日本はこの先どんな国になっていくのか、国民主権は大丈夫なのか、もうすでに崩れ去っているのではないかと危惧する人も多いかもしれません。

 

 このような中、私たちに求められていることの一つは、油断せずに目を覚まし、惑われないように耳をすまし、だまされないように知恵をさとくし、どんな人も皆一人の同じ人間であり、同じく尊い存在であるという価値観に固く立つことが肝要かもしれません。

 

 私が、天皇の代替わりに行われる大嘗祭に問題を感じ、危惧し、反対するのは、一人一人の尊厳が奪われるからです。なぜか。それは、人間を神とする儀式である大嘗祭は、私たちが神となった天皇によって心を体も支配され、信教の自由などの基本的人権がなくなり、差別や排除、そして迫害を受けるという人間の尊厳さが奪われるという深刻な悲しみや大きな苦痛を与えることにならざるを得ないからです。

 

 天皇制が確立したのは、紀元7世紀で、大宝律令が制定され、神話である、古事記や日本書記が編纂されることによってでした。これらの書物には、天皇の神格化が記載され、大和民族の優秀さが書かれ、世界を一つの家にするという八紘一宇の考えが表され、世界制覇が目論まれることが記されていて、他の国や民族を差別し、侵略することが正当化され、軍事主義に突き進む思想がある。この天皇制に戻り、強い軍事国家に作り上げようとする安倍首相の魂胆や策略に惑わされ、だまされてはならない。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という憲法の精神からして、到底受け入れられないし、反対しなければならない。

 

 心にしっかりと刻んでおきたいことは、象徴天皇制の下、国民に寄り添い、被災地を訪問しも、慰霊の旅を行う平成天皇を尊敬する多くの人々の心が絡めとられて、大嘗祭が何の疑問もなく、受け入れられ、知らず知らずのうちに、天皇が神格化された存在として、国や国民の繁栄と幸福を神々に祈り、国民はこれによって生かされていることを承認してするようなことがあってはならないし、そのためにも、どんな人も皆同じ人間、尊厳さを持った同じ存在であるところに固く立って生きることです。

                                                                     2019年4月10日

 


  8月はさまざまなところで平和の尊さを訴え、戦争の悲惨さを訴える集会や集まりがありました。

心に刻むべき言葉がいろいろありました。

 さまざまなところで、平和を実現するために必死に働き、行動している多くの存在に勇気を与えられ、その人たちの発する真摯な多くの言葉に心からの感動を得られました。

 広島や長崎で、被爆者の人たちが 核兵器禁止条約に反対している安部首相に 「被ばくして未曽有の苦しみを受けている私たちを無視している。あなたはどこの国の首相ですか」という痛々しい言葉がありました。

国家が起こした戦争によって犠牲になっている人々に心を寄せず、見解の相違ですと突き放す冷たい言葉を、なぜ臆面もなく、自信をもって言えるのかわかりません。  おごりでしかないと思わざるを得ない。

 政治家と政治屋との違いを私たち国民は見分ける賢明さを身につけなければならないのかもしれません

 戦争孤児となり、本当に想像絶するような苦難を背負い、苦難を必死に耐え、乗り越えて一生懸命になって今日まで生きている80歳過ぎた女性が、たくさんの孤児が道端などで死んでいくのを見てきた。それを見ていても、国はおにぎり一つを与えず、助けなかった。助けないどころか多くの孤児を見捨て、死なせてきている。国は本当に国民を助けてくれない。もし戦争を起こすことをしたら、その政治家の命を奪いたいぐらいの怒りを感じると言っていた言葉が心に刺さるようにして残っています。

                          2018年8月16日


 沖縄県知事翁長さんが亡くなられました。ショックです。悲しい。

何で?   どうして?

沖縄の人たちの悲しみ、喪失感、絶望感は計り知れないものがあるのではないか

これからの沖縄はどうなる?     辺野古は?

神のみ心はどこに?

生ける神は弱い立場にある人たちに寄り添い、大いなる力を発揮したくださり、驚くことをしてくださる

と信じているけれど

ただ祈るのみ

沖縄の人たちの悲しみが癒され、立ち上がる勇気が与えられて、希望をもって

平和を守る戦いが続けられるようにと

                         2018年8月9日


 玄海原発3号機が再稼働しました。

「福島の教訓を生かしていない再稼働で、愚行だ」という憤りの声が上っています。

核ゴミ処理などさまざまな課題に何ら解決を得られていないのに、本当に無責任だと思います。

一瞬にして多くの人の人生を狂わせていることや、再び同じ悲惨な、絶望的なことが起こる可能性があるのに、そのことに何の責任を持てないし、責任を果たすことが出来ないのに、このことに心を痛めたり、悲しむ良心は持ち合わせていないのかと思わざるを得ない。

 いろんな分野に於いて、自分では責任を取らない、他人に責任を負わせる、無責任体質が日本を覆っているという指摘は本当に正しい。他人をひどい目にあわせても責任が取れないことを平気でやっていることにおぞましさを感じるという意見に同感します。

 原発ゼロにしようという考えや運動に賛同します

                              2018年3月23日

 

 


  3・11東日本大震災の7年目を迎えました。

一瞬にして、約2万人の尊い命が奪われ、数えきれない多くの家や財産が流され、原発事故による放射線の恐怖にさらされて、住み慣れた土地を離れ、避難生活を強いられている、不自由な生活されている人たちが7万3千人もまだいる、一向に復興復旧が進んでいない状況に心を痛めます。

 2020年の東京五輪へ人々の関心が向けられていく中で、置き去りにされていると感じ、寂しく悲しいつらい気持ちにさせられている被災された人達のことを想うと心を痛めます。

 3・11東日本大震災が問いかけていたであろう生き方や価値観の見直しの点に於いて、私達は変わっているのであろうか。

 見えることも大事であるけれども、見えないところにこそ最も大事なことがある、真に人間らしく生きる大切な知恵が示されるという一つの問いかけから見れば、何も変わっていないのではないかと思わざるを得ないことが頻繁に起きているという指摘は正しいと思う。

 決して人間は万能ではないし、むしろ自然の前には無力である。だから謙虚にならなければならない。しかし傲慢のままで、人を人と思わずに、自分の欲のためには、他人をけなし、否定し、利用し、どうなっても構わないという卑しい貧しい考え方が社会の至るところで見られているという指摘は正しい。

 森友・かけ学園問題、財務省の文書改ざんの問題、官僚にすべての責任を押し付ける政治家の傲慢な姿におぞましさや恐ろしさを感じ、日本はこの先どうなっていくのだろうかという不安や恐れを感じている人も少なくない。

 しかし、あきらめたら終わり。

 真に大きな力をもって支配しているのば人間ではないし、この世の権力者でもないし、政治家でもない。そうではなくて、真に歴史を支配している方が他に存在している。愛と平和をもたらすために生きて働いている方がいる。

 そこから希望が生まれる。

 9条の日本国憲法は偶然にできたのではなく、井上ひさしさんも言っているように、平和憲法は歴史が与えてくれたものであり、言い換えれば、私達人間の歴史の中で地下水のようにして流れている、大きな力にょって、押し出されるようにして、生まれ、与えられているものであり、信仰的に言えば、世界平和を実現していくために、人間の歴史を支配している生ける神が与えてくださったものであるという考えに賛同し、受け入れることによって希望が得られます

                                  2018年3月15日

 


 財務省の書き換え疑惑が事実なら本当に恐ろしい。

これは、国会を軽んじ、国民をなめ、民主主義を破壊する由々しき行為であり、犯罪です。犯罪どころか日本は戦時下と同じ状態にある。恐ろしい。

 さらに恐ろしく思わせられるのは、実際に戦時下になったら、どうなるのか、黒が白と言われる、おぞましいことが日常茶飯事になる国になってしまう。真実がわからなくなると。恐ろしい。

 平和憲法が破壊されていく。平和主義、国民主権、基本的人権の尊重という憲法の精神がないがしろにされていく。恐ろしい。

 奢るもの久しからず、です。奢るものはいつか破綻し滅びることが歴史によって証明されています。

恐れずに、あきらめずに、希望を持って、憲法を守ろうという力強い声を上げていきたい。

                                    2018.3.6