礼拝説教の要旨

 

 2020年4月5日

    題:イエスの叫び       聖書:ルカ福音書23:4456

 

 言葉が軽い、言葉に重みがないという指摘が、特に政治家の言葉に向けられ、嘘やごまかしそして、無責任さが指摘され、真実がない、信頼できないという批判や嘆きが聞かれることがあります。

 

 重みのある、真実な言葉はいのちを懸けて語るところから出てくるに違いないし、死の間際にある時には発せられる言葉もそうであるに違いありません。

 

 十字架につけられて、死んでいかれる時の「父を、私の霊をみ御手にゆだねます」というイエスの言葉はまさしく真実であり、重みのある、感動させ、圧倒させる言葉であると言えます。

 

 青春の只中で、夢と希望を抱き、力溢れる時であり、人生の半ばに差し掛かっている時に命を閉じなければならない無念さや恐れを感じると思われる33歳の時に、すべてをゆだね、明け渡し、白紙委任のような心でもって、無念さや恐れから解放されて、自由になり、晴れやかな心を表しているイエスの姿に、ローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と感嘆し、本当の救い主の姿を見、神こそすべてをゆだねられる信頼できる存在であることの確かな証しとして理解できたに違いありません。

 

 胸を打ちながら、悔い改めさせられた人たちは、すべを明け渡し、委ねる、神への信頼がないために、些細なことで悲しみ、恐れを抱いている自分のふがいなさに気づいたのかもしれません。

 

 私たちが問われているのは何か。それは、私たちが、すべてを委ねる信仰があるのか、又、委ねる者にしっかりと答え、配慮し、安心して、希望をもって生きていくために必要なことは必ず与えてくださる存在として、大いなる力でもって生きて働いている創造主なる神として信頼しているのかどうかであり、委ねる心を養うために必要であるところの聖書に親しみ、祈る生活があるかどうかです。

 

 

 2020年4月5日

    題:イエスの叫び       聖書:ルカ福音書23:4456

 

 言葉が軽い、言葉に重みがないという指摘が、特に政治家の言葉に向けられ、嘘やごまかしそして、無責任さが指摘され、真実がない、信頼できないという批判や嘆きが聞かれることがあります。

 

 重みのある、真実な言葉はいのちを懸けて語るところから出てくるに違いないし、死の間際にある時には発せられる言葉もそうであるに違いありません。

 

 十字架につけられて、死んでいかれる時の「父を、私の霊をみ御手にゆだねます」というイエスの言葉はまさしく真実であり、重みのある、感動させ、圧倒させる言葉であると言えます。

 

 青春の只中で、夢と希望を抱き、力溢れる時であり、人生の半ばに差し掛かっている時に命を閉じなければならない無念さや恐れを感じると思われる33歳の時に、すべてをゆだね、明け渡し、白紙委任のような心でもって、無念さや恐れから解放されて、自由になり、晴れやかな心を表しているイエスの姿に、ローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と感嘆し、本当の救い主の姿を見、神こそすべてをゆだねられる信頼できる存在であることの確かな証しとして理解できたに違いありません。

 

 胸を打ちながら、悔い改めさせられた人たちは、すべを明け渡し、委ねる、神への信頼がないために、些細なことで悲しみ、恐れを抱いている自分のふがいなさに気づいたのかもしれません。

 

 私たちが問われているのは何か。それは、私たちが、すべてを委ねる信仰があるのか、又、委ねる者にしっかりと答え、配慮し、安心して、希望をもって生きていくために必要なことは必ず与えてくださる存在として、大いなる力でもって生きて働いている創造主なる神として信頼しているのかどうかであり、委ねる心を養うために必要であるところの聖書に親しみ、祈る生活があるかどうかです。

 


 

 2020年3月29日

   題:十字架上のイエス       聖書:ルカ福音書23:2643

 

 7つある十字架上でのイエスの言葉の一つが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というとりなしの祈りです。信じられない、驚くべき祈りです。

 

 想像絶するような極限の痛み、苦しみの中で、しかも、無実の罪をでっち上げ、あざ笑い、侮辱し、ののしり、命を奪った敵のような人たちをイエスが赦しておられることに本当に驚きます。

 

 また驚くことの一つが、主イエスと一緒に十字架につけられていた死刑囚の一人の極悪人が悔い改め、信ずることによって、赦され、永遠の命を与えられる祝福の約束を受けていることであり、赦しが、どんなに大きく、広く、深いかを示しているし、赦されない罪はないし、どんな人をも赦されるという福音を証ししています。

 

この死刑囚でさえ赦されているならば、主イエスの赦しは絶対であり、私のような罪深い者でも、赦され、救われるという望みを抱きことが出来る人も数多くいるし、パウロによってさえ救われない人も救われている不思議なことが数多くあるに違いありません。

 

人々がイエスを十字架につけ、命を奪った理由になっている無知というのは、どんなことであったのか。

 

その一つは、特別な使命を実現するために選ばれ、神の恵みを受け、神が共におられることを弱々しく見えるイエスの姿によって分からず、他人を救うことができることは、自分が救われているからであり、本当に強いから弱くなれるし、選ばれていることが救われていることであることに無知であったからです。

 

 イエスの代わりに、強制的に十字架を背負わされるという嫌な、しんどいと思われる苦難を経験したシモンが自分だけではなく、妻や子供たちが救われているのは、この苦難を神の選びとして、恵みとして、祝福として受け止めることができたからかもしれません。

 


 

 2020年3月22日

    題:十字架刑の判決       聖書:ルカ福音書23:125

 

 冤罪という痛ましいことが、昔も今も、狭山事件や大逆事件などの社会的や歴史的な場面で、最近ではインターネツト上などの身近なところで起き、濡れ衣を着せられ、仕事や地位を奪われ、人生が狂わせられ、命を絶つという恐ろしい事が起きています。

 

 主イエスも、無実の罪が罰せられる冤罪で、十字架刑の判決を受け、死刑に処させられています。

 

 告発者である律法学者たちや祭司長などの当時の権力者たちが、無実の罪をでっち上げたのは、人々のイエスへの評判と尊敬を妬み、自分たちの指導者としての立場を守るためでした。

 

 裁判官の立場にいる総督ピラトはイエスに罪を認めなかったのに、自分の立場を守るために、暴動になっていくことを恐れて「イエスを十字架につけよ」という群衆の叫びに負けて、イエスに十字架刑の判決を下したのでした。

 

 群衆も、権力者である祭司長や律法学者たちに忖度して、自分たちを守るために、「イエスを十字架につけよ」と叫んでいます。

 

 驚くほど不思議に思うことは、イエスの沈黙です。普通なら、反論し、弁明し、時には、自分の正しさを主張するために、ないことでも自分に有利なことを言い立てるのに、主イエスは何も言われず、ただ神の裁きにゆだねるようにして、黙っておられました。

 

 沈黙には、弁明して、説き伏せることをしても、人々は変わらないし、十字架によって実現する神の裁きと赦しでしか、愛によるしか、神の愛の力に出会うことでしか、パウロやペテロ達がそうであったように、自分中心から他者中心に、人間中心から神中心に変わることはできない。つまり「生きることは共に生きること、共に生きることは支え合い、分かち合って生きること、弱き人と共に生きる」という愛に生きる人に変えたいというイエスの思いがあった。

 


 

 2020年3月15日 

    題:弟子たちの裏切り       聖書:ルカ福音書22:4762

 

 イスカリオテのユダの名前は、キリスト教関係者以外の人たちにもよく知られ、裏切りの代名詞みたいになっています。ただ、実際は、裏切ったのはユダだけではなく、12弟子みんなすべての人が裏切っています。

 

 ユダとペトロの裏切りの物語の中で、注目させられるのは、裏切りの違いです。つまり、同じように主イエスを裏切ったのに、同じように悔い改めをしている二人なのに、ユダは自殺に追い込まれたけれども、ペトロは生きることができただけではなく、ふたたび弟子として立ち上がるできたことの違いです。

 

 この違いはどこから生まれてきているのか。その理由の一つは、ユダの裏切りは、期待していたイエスに裏切られたと勝手に想い、怒りと憎しみが生まれ、イエスを見捨て、離れることの中で起きていますが、ペトロの場合は、従っていこうという想いは持ち続けていたけれども、自分の弱さや愚かさのために、裏切っていることです。

 

ユダはイエスとの関係を断ち切り、手を組んだイエスの敵からも見放されることになり、孤独になり、イエスの殺害に加わった自分の重い罪に耐えられなくなったから、自殺へと追い込まれた。

 

 ペトロの場合は、裏切ったけれども、イエスとの関わりは切れないで、キリストの優しいまなざしの中で、孤独にならずに、それどころか、イエスの赦しと愛を感じることが出来ている中で、裏切った罪に耐えることが出来、生きる力が与えられ、もう一度弟子となって立ち上がることが出来ています。

 

 ペトロ達は、新しく生まれ変わることによって、自分の愚かさや弱さそして罪を隠さずに、それらを積極的に明らかにすることを通して、神の豊かな愛と栄光を褒めたたえるようになっています。

 


 

 

 2020年3月8日

     題:苦悩の祈り       聖書:ルカ福音書22:3946

 

 十字架の苦難の道に突き進んでいく時、主イエスはいつものように祈っておられたのとは対照的に、弟子たちは祈りませんでした。祈れませんでした。祈らず、眠り込んでいました。

 

 肝心かなめの時に弟子たちが祈らないという情けないことをしたのは、悲しみに疲れ果てて、誘惑に陥っていたからでした。つまり、指導者と尊敬し、すべてをささげていた主イエスが十字架につけられていかなければならない、殺されてしまうということが弟子たちにはどうしても理解し、受け入れることが出来ずに、神の力と恵みが信じられなくなり、そして苦しみ悶えている、弱弱しく見えるイエスにショックを受け、がっかりし、怖くなり、悲しみに疲れはてて、眠り込んでいたのでした。

 

 主イエスが、いつものように祈っているところに弟子たちを連れて来ていたのは、苦難にも拘わらず祈るというのではなく、苦難だからこそ、その只中で祈ることが大切であることを示そうと思われていたはずなのに、それが弟子たちには伝わっていませんでした。

 

 恐れや絶望を抱かせるところの十字架の死に進んでいく中で、ひたすら祈り、恐れから解放されて、毅然となり、勇を鼓して、力強く立ち上がっていくイエスの姿に、祈りには大きな力があることが示されています。

 

 主イエスは生ける神と対話する祈りを通して、十字架の道こそ御心であり、人類を救うためにあり、愛に生きることとして受け止めることによって大きな力が生まれ、喜んで突き進んでいかれた。

 

 だから、主イエスは、私たちに「求めなさい。そうすれば与えられる。祈りなさい。そうすれば、祈りが聞かれる。私たちの祈りを待ち、喜んでくださる生ける神の心を動かし、恐れや不安から解放され、望みに生きる力が与えられ、力強く立ち上がれると。

 


       2020年3月1日

    題:十字架の道への決意       聖書:ルカ福音書19:2844

 

  ご自分を捕らえ、裁き、断罪し、命を奪う権力を持つ人たちが待ち構えているエルサレムの町に、主イエスが入っていく振る舞いが私たちには不思議に思います。

 

その一つは、主イエスが先立って進んでいかれた姿です。敵である権力者との対峙があり、非難や脅迫が待っていて、慄き、恐れをいだかざるを得ないと思われるような時なのに、巨人ゴリアテに立ち向かう少年ダビデのように、慄き、恐れから解放され、自由になり、強い決意を抱き、毅然として、先立って進んでいかれる姿はどこから来ているのかということです。

 

それは、神の子だから、本質的に剛毅な性格だからという理解のほかに、生ける神が共にいるという確信から来ていると言えます。つまり、救い主となるという特別な使命が与えられ、神の救いの技に用いられるから、救いを実現していくためには、神はご自分をしっかりと守ってくださるという確信から来ていることです。

 

 このことは、エルサレムに入っていかれる時、たくましい軍馬に乗って威圧するようなふるまいを選ばず、ゼカリアの預言に従い、柔和な、弱弱しいロバに乗り込んでいくことを通して平和的に救いを実現していこうとする振る舞いにも表れていて、神が共にいて一緒に戦い、必要なことはすべて整えてくださるという確信から来ています。

 

 乗っていくロバを不思議な形で手に入れられたふるまいには、共にいて、一緒になって戦い、必要なものはすべて与えてくださる神の配慮にゆだねる主イエスの思いがあり、生ける神こそ唯一の確かな、真実な、確実にゆだねられる方であり、すべてをゆだねられることこそ救いであることを主イエスは私たちに示し、僕のようになって主イエスにあって創造主なる神に委ねなさいと勧めています。

 


 

 2020年2月23日

    題:私の隣人とは       聖書:ルカ福音書10:1537

 

 「愛することは生きること、生きることは愛すること」という言葉は愛が大切であり、愛がない人生はむなしいことを教えています。

 

 このことは、悪意や自己中心的な人以外は、だれもよくわかっていることでありますが、問題は実行するのが難しいことです。

 

 しかし、主イエスの「実行しなさい」という言葉は、私たちにおいても実行できる道があることが示されて、その答えを良きサマリヤ人のたとえ話を通して、教えておられます。

 

 「神を愛し、自分のように隣人を愛することが神の教えである」と答えたある律法学者に、主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と諭されています。この諭の言葉に、彼は自分を正当化しようとして、自分は愛に生きているのだと主張する思いをもって「わたしの隣人は誰ですか」と聞き返します。

 

 この「わたしの隣人は誰ですか」という言葉に彼の愛の問題性があらわれているのを見抜かれた主イエスは、「良きサマリア人のたとえ話」をされ、強盗に襲われて、半死半生になって、道端に倒れ、助けを求めている人を見ても、見て見ぬふりをして、いろんな理由を挙げて、それらを正当化して、この人は私が愛すべき隣人ではないと判断し、無慈悲になって通り過ぎる祭司やレビ人を示します。

 

 サマリヤ人は、倒れている人が日頃から差別されているユダヤ人であるにも関わらず、国や民族、信条という敵意という壁を乗り越えて、倒れている人は、同じ人間、神に愛されている同じ人間、自分と同じように、神に赦されて、かけがえない存在として愛されている一人の同じ人間であり、この助けを求めている人を助けたら、自分がどうなるかという恐れの思いよりも、この人を助けなければ、この人はどうなるかという憐みの思いが勝って、倒れる人の隣人になっていくサマリヤ人の姿に愛に生きる道の答えがあると。

 


 

  2020年2月16日

    題:み心に適う者       聖書:ルカ福音書10:1724

 

 主イエスの喜ぶ姿、喜びにあふれている、珍しい姿に、こちらもその喜びにあずかりたいという思いがありますが、主イエスが喜ばれたのは、ある出来事がみ心に適うと確認でき、神を褒めたたえることがあったからでした。

 

 み心に適うと確認できた出来事はなんであったかというと、それは、主イエスが悪霊を追い出す権威を授けて、宣教に遣わした72人の弟子たちが実際に悪霊を追い出すことができるなどの豊かな実が結び、神の国が実現している、神がすべてを支配していることが見える形で実現していることが示され、このことは預言者たちが見ようとして見ることができなかったことであり、聞こうとして聞くことができなかったことでありました。

 

この出来事を通して、主イエスが神の国を実現するために、知恵あるものや賢い者を選ばずに、幼子のような弱く無力な者を選び、用いていたことや預言者たちが見、聞くことがではなかった救いのわざを見ることができ、聞くことができる幸いをえることができたのは、ご自分が選んだ幼子のような弟子たちであることも、み心に適うことであると確認でき、このことを通して、ご自分が救い主であることを改めて確信でき、喜びに満たされているのではないか。

 

 神が救いの技のために選ばれるのは幼子のような存在であることは、選びは、神が一方的に、自由に、恵によるものであり、言い換えれば、すべての人が選ばれる可能性があるということです。

 

 選ばれている人は、自分の力に頼ることをせずに、天に自分の名が記されていることを喜べるし、ただ生きていること、存在していること、それだけで神に愛されている尊い存在であることを素直に信じ、喜べるのではないか、そして素直に信ずることができるために聖霊が必要である。だから聖霊を祈り求めなさいと勧めます。

 


 

  2020年2月9日

    題:新しい祝福       聖書:イザヤ書54:117

 

 いろんな点において私たちは完全無欠ではなく、そうではなく、いろいろと失敗をし、挫折し、間違ったことをし、悩み、心を痛め、悲しみ、絶望し、つらい思いをする者でありますが、さらにつらいことは、他人との関係が破綻していくことかもしれません。

 

 それまで親しい関係であったのに、疎遠になり、嫌がられ、そばにいて、尊敬しあっていたのに、遠くに去り、見向きもしなくなり、いろいろと冷たく非難するようになったりします。

 

 これと同じような経験をしていたのが、国が滅ぼされたバビロン捕囚(紀元前587)というみじめな、辱めを感じていたイスラエルの人たちでした。つまり神に背き、罪を犯した自分たちが悪いから、そんなつらい目に合うことは仕方がないことだと諦め、マイナス思考にとらわれ、絶望的な思いになっていたに違いありません。

 

 預言者イザヤは、絶望的な思いにあるイスラエルの人たちに対して、「良い知らせがある。絶対ありえないと思われる知らせだ。それは、神から新しい祝福の言葉を聞いたことだ。つまり、創造主なる生ける神はもう裁きを止め、赦し、これからずっと共にいて、見守り、導き、あなた方を祝福するという約束だ。だから喜びなさい。恐れることはない」というメッセージを語ります。

 

 これを聞いたイスラエルの人々の中には、諦めや不信の人たちもいただろうし、プラス志向に立ち、心を空っぽにして、素直になって、清水の舞台から、「エイ」と飛び降りるようにして聞き従い、信じて、慰めと平安そして希望に生き、毅然として生きる人もいたに違いありません。

 

 イザヤが預言した新しい祝福がイエラエルの歴史において成就したのはイエスにおいてであり、イエスを信ずる人は、時を超えて、空間を超えて、すべての人において、神の新しい祝福の約束の言葉が実現する恵みにあずかれることが訴えられています。

 


 

 2020年2月2日

    題:光の子として生きる  聖書:エフェソ書5:620

 

 主イエスが「光の子として歩きなさい」と勧めている理由は、イエスを信じ、イエスにつながっている信仰者は、光の子であるから、あらゆる善意と正義そして真実である光の中に移されて、光の子という存在になっているからであると言われています。

 

 善意よりも悪意の心が多く、正義ではなく、不義に生きる者であり、真実が欠け、偽りが多い私たちは、実際に不可能だと思い、自信が持てないと思う人が多いのではないか。

 

 主イエスは、光の子であるから、明るく、温かく、輝いて生きることが出来ると仰って、私たちの背中を押してくれています。

 

 光の子である私たちが実際に光の子としてあるいていくことが出来るために、大事なことがあることが示されています。

 

 それは、出会うさまざまな事柄に判断し、対処し、行動していく時、何が主に喜ばれるか、何が御心であるかを吟味し、悟ることであり、つまり、いろんな時、主イエスはどのように考え、発言し、行動するのかと思いめぐらすことを通して、光の子として生きる道が実現していくと言われています。

 

 具体的に光の子としての生き方として現れてくることの一つは、悔い改めるという光であり、悪意を抱いて他者を排除し、他者を尊重せず、差別する不義な心を抱き、皆人間は尊い存在であるという真実にいきることが出来ない生き方に加担せずに、自分の罪に気づき、心を入れ替えることができることです。

 

 二つ目は、時をよりよく生きる賢さが身につくという光でありあり、様々な困難や危機に逃げずに、雄々しい心をもって自分の課題として真正面から担うことできることです。

 

 三つ目は、賛美と感謝という光であり、どんな時も万事を益としてくれる神の配慮に気づき、喜びと希望生きることができることです。

 


 

 2020年1月26日

    題:神の働き手への招き  聖書:ルカ福音書10:112

 

 神の救いの働きに招かれているのは、言うまでもなく、牧師だけではなく、信徒の人もそうであり、その働きも祈りや献金などさまざまなものがあります。

 

 神の働き手として72人が招かれているのは、イスラエルの人たちにだけではなく、すべての国の人々に延べ伝える世界宣教の命令が出されていると理解ができ、「すべての国々の人たちに福音を延べ伝えなさい」というイエスの言葉に促され、心を動かされて、強められて、今日まで、日本にキリスト教を初めて伝えたザビエルのように、他の国々に出かけて、厳しい状況の中で、犠牲を払い、福音を延べ伝えてきている宣教師が数多くにいるし、この方々の働きのお陰で今日の私たちがあると言えます。

 

 イエスが12人から数を増やして、72人に弟子として派遣しているのは、なぜか、それはいろんなことで困り、助けや救いを必要としているが沢山いて、たくさんの収穫ができるのに、中村哲さんにように、目の前に倒れている人がいたら助けるのが当然だと思って、働く人が少ないからであると言われています。

 

 イエスが福音を延べ伝える神の働き手に向かって、三つの心構えを教えておられます。

 

 一つは、徹底して神の配慮に頼り、必要なことは与えられると信頼して不安や思い煩いを捨て、働きなさいと。

 

 二つ目は、神の働きには必ず報いがある。うまくいかなかったとしても、その働きは天に宝を積むことになるから希望を持てと。

 

 三つ目は、神の働き手は神の技に参加できることであるという意識を持って、毅然として誇りをもって働きなさいと。

 

 神の働きは、自分のことは考えないで、ただ神の愛、キリストの恵みだけを伝えることであるから、応えやすいのではないかと。

 


 

   2020年1月19日

          題:信仰者の心構え  聖書:ルカ福音書9:5762

 

 何かを行う場合には、それに取り組んでいくためには、さまざまな心構えや決意そして覚悟が必要になりますが、イエスは、ご自分に従っていくために必要な心構えについてどう思っておられたのでしょうか。

 

 一つは厳しさです。楽なことよりも、しんどいことの方が多くあり、楽しいことよりも困難ことの方が多くあるという心構えをしっかりと身につけることです。

 

 二つ目は、父を葬ることなど他の大切な行いよりも、神の国を延べ伝えることを優先する決意を持つことです。

 

 三つめは、家族の理解を得てからとか、罪ある過去の自分にとらわれて、今すぐに従えないという後ろを顧みる思いを捨て、前を見、自分を見ないで、上を見、十字架を見上げていくという覚悟です。

 

 イエスが求める覚悟や心構えそして決意を聞いて、そこに真剣さと熱心さそして徹底さという厳しさを感じ、二の足を踏み、躊躇し、挫折を覚える人もいるに違いありません。

 

 しかしイエスの厳しさに、裁きではなく、愛があることを気づいて、慰めと励ましそして希望を見出すことが出来る人もいるに違いありません。

 

 イエスがこの真剣になり、熱心になり、徹底するという厳しさが私たちに欠けていると分かっている中で求めておられるのは、私たちを偉大なる神の技、尊い働きである神の国の宣教へと招いて、私たちを高く引き上げようとしているからです。

 

 イエスに従うことのなかで最もふさわしいことは、神の恵みと愛そして赦しの信仰に真剣になり、熱心になり、徹底して生きることであり、アブラハムやペテロ達のように、失敗し挫折しても心を折れることなく、あきらめずに従い続けていくことです。

 


 

 2020年1月12日

     題:真に偉い者  聖書:ルカ福音書9:4648

 

 戦争の原因の一つが、誰が一番なのか、どの国が一番偉いのかという競争意識であり、その競争に勝利したいという意識が平和を乱す元凶であり、私たち人間の本能であると言えます。

 

 弟子たちの間でもこの競争意識が生まれて、怒りや憎しみが生まれました。そのことに対応された主イエスは、一番偉い者になりたいという願いを否定せずに、萎縮するようなことは求めずに、肯定しながら、大事なことは、どんな形でその願いを実現するかであることを教えておられます。

 

 主イエスは、最も偉い者は、最も小さい者である。つまり子供のような、無力であり、生きているためには支えられ、愛されることを必要としている存在するだけの者が最も偉いと言われ、この世の価値観とは異なる価値観を示しておられます。

 

 どうして最も小さい者が最も偉いと言われているのか。それは、偉大な存在である、生ける神に出会い、生ける神とともに生き、生ける神の命が注がれるつながりが最も小さい者において生まれるからです。

 

 偉大な神とつながることによって、真に偉い者になる。つまり、他者に仕え、正直に生き、他者の気持ちを理解でき、他者のおかげであるという感謝の気持ちを忘れずに生きる豊かな心や神なしでは生きていけない小さな者であるというという謙虚な心などの偉い心が生まれるということです。

 

 偉大な神とつながることがどうして生まれるのか。それは、神から遣わされた、神の子であるイエスを受け入れることであり、イエスを受け入れることが出来るのは子供を受け入れることであり、子供をそのまま受け入れるためには、私たちも子供のような無力な赦しを必要とする小さな者であることに気づき、受け入れることです。

 


 

 2020年1月5日

     題:主の僕の苦難と死  聖書:イザヤ書52:1353:12

 

 2020年という新しい年を迎えて願うところの豊かさにはさまざまな事柄が考えられますが、その一つが、驚きを感じる事柄に出会うこと、つまり、いままで聞いたこともなく、見たこともなかったことに出会うことであると言えるのかもしれません。

 

 預言者イザヤが驚いていることは、主の僕のこと、救い主に関することでした。すなわち、これから遣わされる主の僕は、力をもって支配するダビデ王的なメシアではなく、全く逆の、敗北者のような、見栄えは貧しく、卑しく、弱弱しい存在としてふるまうことになるから、皆驚くことになると予言しています。

 

 神の豊かな恵みに生き、真に偉大であり、強くあり、尊くあるメシアは、外観は卑しく、弱弱しく、貧しく見えるということは、私たちに外観で人を判断してはならないし、判断できないのではないかという戒めを示しているように思います。

 

 もう一つの驚きは、さまざまな痛みや苦しみ、絶望的な状態に置かれている人は、私たちの身代わりであり、私たち自身がもしかしたら、そのような悲惨な状態に自分の身を置いたかもしれないということ、そして私たちの癒しや平安そして命などのさまざまな恵みは、与えられているものであることに気づくことです

 

 この気づきが生まれるならば、さまざまな困難を受け、厳しい状態に置かれている人に向かって、可哀そうだという同情ではなく、共に泣き、苦しむ寄り添う心が生まれてくるのかもしれません。

 

 イエスは、単なる同情を超え、共に苦しむという立場を超えて、身代わりの立場に生き、卑しく、貧しく、弱弱しくなり、苦難と死を引き受けられて、私たちへの贖いと愛の救いを実現しています。

 この救いは私たちが自分の弱さに悲観したり、否定して自信を無くすことにに勝って、あるがままの自分をそのまま肯定し、尊さを感じて、生きることが出来るという驚くべきことを起こします。

 


 

 2019年12月29日

   題:星に導かれて  聖書:マタイ福音書2:112

 

「学ぶことは変わることである」という言葉と同じく、救いにおいても、救われることは新しく生まれ変わることであ

り、価値や生き方が変わっていなければ、本当に救われていることにはならない。

 

 救い主として生まれた幼子に会い、大きな喜びに満たされ、自分の大切なものを惜しげもなく、捧げたことが出来るほど

に生まれ変わっている博士たちの姿から、変わることが出来た理由の一つが、ヘロデ王やエルサレムの人たちのように、今

のままでよいという思いを捨てて、このままではだめだ。だから変わらなければならない、変わりたいという思いであるこ

とが伝わります。

 

 博士たちが、新しく生まれ変わりたいという願いを叶えることが出来たのは、不思議な星の導きが得られたことであり、

その不思議な星が救い主として生まれた幼子に会えるという確信を抱かせたのは、神は人間を救うために救い主を遣わすと

いう神の約束の言葉でありました。

 

 博士たちが、救い主に会えることが出来たのは、長い旅をしていく中で様々な困難、試練、試みに遭遇しても、荒野の旅

において、疑い、挫折し、失望したイスラエル人たちと違って、試練に負けず、挫折せず、失望せず、あきらめずに、アブ

ラハムのように神の約束の言葉を信じ続けることができたからでしょう。

 

 私たちにとって、星のように導き手となる神の約束の言葉は、神は罪深い私たちを赦し、愛し、尊い者として受け入れ、

共にいてくださるという祝福と恵みであり、そのことを確信していくために大事なことは絶えず聖書に親しみ、祈り、礼拝

を守ることです。

 

この信仰生活を通して、自分の大事なことをささげることができるようになり、大事なことの中で最も尊いのは心であ

り、謙虚、愛、勇気という心をもって生きる者に生まれ変われることです。

 


 

 2019年12月22日

    題:飼い葉桶の救い主  聖書:ルカ福音書2:114

 

 救い主の誕生をお祝いするクリスマスが大きな喜びであると言われている理由の一つが私たちが日々出会うさまざまな困

難や苦難の中で感じる心配や不安、そして恐れを取り除かれ、自由に生きることができる救いが実現していくからです。

 

 もう一つは、恐れを取り除くのは、生ける神であり、創造主なる神、すべてを支配しておられる、死んだ者を復活させ、

命を与えることが出来る生ける神の働きであるので、その救いは確かであり、真実であり、必ず実現するからてす。

 

 恐れが取り除かれて、慰められ、安らぎを与えられ、自由に生きることが出来る救いは本当なのか、さまざまな危機が至

るところである中で、2000年前に、遠い他国で起きたことが、今の時代に、罪深い自分に於いても、本当に実現するのかと

いう疑念を簡単には払拭できないところがあります。

 

 「すべての人のために大きな喜びをもたらす救い主がお生まれになった。だから恐れることはない」と伝える天使は、恐

れを取り除く救いの出来事が起きたことがどんなに事実であり、確かなことであり、真理であるかを表すしるしとして、

「飼い葉桶で布に包まれている幼子を見なさい」と語り掛けています。

 

 このしるしを通して、救いの神は、病気や貧困によって苦しみ、さまざまなことで差別され、悲しみ、罪や死による危機

にあって絶望している人のところに寄り添い、共におられることが実現し、そのような中で、赦されているから、慰められ

るから、一人ではないから、大丈夫だ。だから恐れることはないというメッセージが表されています。

 

 恐れが取り除かれ、平安や慰めそして自由が得られ、大きな喜びを齎す救いが一人一人に於いて、この呼びかけに一歩前

に出て、疑いをすてて、すべてをかけて従うことが大切であり、求められます。

 


 

  2019年12月15日

    題:マリア賛歌  聖書:ルカ福音書1:4656

 

 待降節の心備えの一つが、賛美すること、神を褒めたたえ、喜びたたえることであることがマリアの賛美を通して教えら

れています。

 

 マリアが賛美しているのは、神の働きを受けて、幸いを感じているからであり、幸いを感じたのは、神に目を掛けられ、

顧みられていると思えたことであり、自分のような卑しいものが神に目を掛けられ、顧みられることがどんなにすごいこと

であることか、奇跡的なことであるかと思ったからです。

 

神に顧みられることの具体的なことは、救い主を宿すこと、救い主の母になる偉大なことを成し遂げる選びを受けたこと

でした。

 

この選びは絶対ありえないと思えることであり、そのありえないことをマリアは、戸惑いを乗り越えて、「お言葉どおり、この身になりますように」とただ信じ、受け入れて、賛美が生まれています。

 

 マリアは、救い主の母になるという選びを受けたのは、自分が何か立派で、優れていて、ふさわしい人間であると思ったからではなく、そうではなく、ただ神の憐みによることであり、ふさわしくない者をふさわしいものとしてくださり、卑しいものを高く引き上げてくださることによると思う思いの中で、奇跡を感じ、大きな喜びに満たされて、神を賛美しています。

 

 マリアの賛美には、神の憐みの働きは、マリア個人に限られているのではなく、社会的なレベルの面でも起きる。つまり、身分の低いものを高く上げる中で、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者を引き下ろすものであり、またイスラエル全体に及ぶ救いの働きであることも示されています。

 

 平凡であり、貧しくあり、卑しいマリアに大きな喜びと賛美をもたらす神の憐みの働きを、自分においても起きる出来事として、ただ信じる、すべての人に開かれていることが示されています

 


 

  2019年12月8日

      題:荒野で叫ぶ声  聖書:ルカ福音書3:120

 

 待降節に於いて求められる心備えの一つが悔い改めです。悔い改める心が罪を赦すという救いをもたらす救い主の誕生を

迎える良き心備えになります。

 

悔い改めとは、単に反省や懺悔をすることではなく、何か悪いことを改めるということでもなく、存在そのものの自分が

罪人であることを認め、自分中心から神に帰ることです。

 

 露払い的な先駆者の働きとなる悔い改めを延べ伝えるために選ばれたのがザカリヤの子ヨハネであり、彼が荒野にいた時

に、悔い改めを宣教する召命の言葉が臨んだのでした。

 

 荒野という厳しい状態の中で悔い改めの宣教が示されているように、悔い改めることを求めることは厳しい。つまり私た

ちが自分の非や間違い、ましてや罪を認めることは本当に難しい。そこには反発、怒り、憎しみがあります。

 

 ヨハネはその厳しさをまず自分に向けています。彼は、すごい働きをしていて、誇ることが出来たのに、そうせずに、自

分自身はどんなに卑しい人間であるかを認め、悔い改める謙虚さに生きています。これが彼のすごさであると言えます。

 

 その厳しさは王のような権力者、支配者にも向けられていて、恐れず、堂々と、間違いや罪を指摘する勇気がありまし

た。

 

 その厳しさは人間が新しくなるということにも向けられています。自分中心な私たちが他者中心になって、困っている人

のために生きることは本当に難しい。そんな難しい、他者のために生きる、心豊かな生き方へと変わるようにと悔い改めを

迫っています。

 

 この謙虚で、勇気ある、他者のために生きる崇高な生き方は、真に恐れるべき方を畏れる信仰から来ているのではない

か。

 

崇高な生き方をされた医師・中村哲さんもこの信仰に生きていたように思います。

 


 

 2019年12月1日

    題:救い主の預言   聖書:イザヤ書52:112

 

 救い主の誕生を迎える待降節において必要とされる心備えの一つに待つ心、喜んで、感謝して、希望を抱いて待ち望む心

があります。

 

 待ち望むことができるためには、救いが確かなことであり、真実なことであり、自分においても実現すると確信できるこ

とが必要になってくるのではないか。

 

 約2,000年前のイスラエルの人たちの間に、もうすぐに救い主がお生まれになるのではないかという強い期待があったよう

です。その期待の根拠は預言にあります。つまり危機的な状況があれば、神は救い主を遣わし、救い、苦しみや絶望から解

放するという約束の預言で、この預言は必ず成就されることを根拠にして、期待が生まれていたのでした。

 

その預言がイエスに於いて成就したというのがクリスマスのメッセージであり、つまり、イエスは慰め、喜ばせ、贖い、

平和をもたらしておられます。イエスはこの救いの働きをしているのは、自分の意志からではなく、ましてや野心的なも

のでもなく、そうではなく、私は神から遣わされて、神が私と共にいる中での働きであることを自己証言しています。

 

 このようにして、救い主の誕生は神が約束することの中で実現している出来事であるから、確かなことであり、生ける神

は約束したことを反故にしたり、気持ちが変ることはなく、約束したことを必ず実現できる大いなる、全能の、歴史を支配

している、生ける神であるから、救い主の誕生は真実であると訴えています。

 

 イエスが「私が来たのは、罪人を招くためであり、罪人を救うためである」と仰っているように、救いはすべての人に於

いて実現する。イエスはすべての人を救うために誕生されているというメッ

 

セージです。

 

このメツセージを素直に、単純に、謙虚に、幼子のようになって自分においても実現していると信じられるかどうかが問

われています。


 

 2019年11月24日

    題:イエスの変貌   聖書:ルカ福音書9:2836

 

 イエスが祈っておられるときに、後光が射すように、顔が変わり、姿が真っ白に輝くという素晴らしく、驚くべき、神秘

的な出来事が起きていることが記されています。

 

 イエスの顔や姿が真っ白く輝くように変わったということを正確に表現すれば、神の力が働く中で、姿が変えさせられる

ことによって、真っ白に輝く姿に変わったということであり、こんな神秘的なことが実現させる神の力が働いたのは、祈り

を通してであり、このことは真に心を込めて祈ることの大切さが教えられています。

 

 主イエスが祈っておられたのは、十字架の道が本当に神の御心であるのかどうかを確かめたいという願いがあったのでは

ないか。

 

 イエスの願いに対して、生ける神はイエスの姿を輝かせるということによって、十字架の道を承認したということであ

り、輝きの中での十字架が示されることによって、否定的にさせ、悲観的にさせ、絶望的にさせ、恐ろしい思いを与える十

字架の道を、イエスは肯定的に、楽観的に、希望をもって受け止め、忍耐と勇気をもって突き

 

進んでいこうという確信をもつことが出来たのではないか。

 

 輝きの中で十字架の道が承認されているということは、救いを実現していくのは、力づくで、武力で人間を屈服させ、勝

利して、神の国を実現するということではなく、罰するのではなく、赦すことによってであり、愛の力でもって、勝利し、

支配して、人間の心を自由にし、報復する心を解放し、平和に生き、赦しにこそ、心が満たされることに気づかせ、愛に生

きる人間を造ることにあったのではないか。

 

 生ける神は、イエスの姿を輝かせることの中で、弟子たちに、「イエスに聞け」という言葉を掛けられて、イスエに従っ

ていく道は確かなものであり、幸いな道であることを確信させようとされたのではないか。

 


 

 2019年11月17日

     題:人を生かす言葉を語る   聖書:エフェソ書4:255:5

 

 人を生かすために役立つ働きには、ボランティア活動などの身体を動かすことや、困難な課題に光をもたらす知恵を使う

ことや、富や地位などの力を用いるなどの働きがあります。

 

 これらの働きの他に、言葉を語るという働きがあることが示されています。確かに言葉は人を動かす。例えば、ありがと

う、大変だったね、大丈夫だ、一人じゃないよ、赦しているよ、愛しているよ、祈っている、という一言によって、苦労が

報われた、自分が認められた、自分の気持ちをわかってくれた、自分は孤独ではないと思えるようになり、悲しみが喜び

に、無力な思いが自信に変わり、絶望が希望に変わって、前向きに生きる人がたくさんいます。

 

 わたしたちが人を生かすのに役立つ言葉を語るようになれば、本当に安心して、平和な思いで過ごすことが出来ますが、

しかし言葉は両刃の刃にもなり、むしろ相手を攻撃し、傷つけ、絶望させ、殺す働きとなり、そのようなことが今の社会に

は蔓延していると言えます。 

 

 このような中で、人を生かす言葉を語ることの意義は何か。その一つは、自分のちょっとした言葉が苦しみ、絶望し、生

きる意欲を失っている人を立ち上がらせ、希望をもたらす働きに参与できることの幸いです。

 

 二つ目は、人間の品や人格や尊厳さを決めるのは、何かすごい力を持つことや富があることでもなく、そうではなく、心

の内から出る言葉であり、それが神の御心でもあるということです。

 

 三つ目は人を生かす言葉を語ることを神は喜び、神の救いの働きに用いられるという誉れを受けられることです。

 

 人を生かす言葉は、人を助けたいという愛の心から生まれ、キリストの愛が教会には満ちているから、皆さんには愛の心

が育てられているから、人を生かす言葉を語りなさいと勧めています。

 


 

 2019年11月10日

   題:担い、背負い、救い出す   聖書:イザヤ書46:113

 

 信仰は弱者のため、弱いものが信仰に走るという言葉が言われることに対して、本当に強い人がいるのか、皆弱さを持っ

ているのではないか、その弱さを素直になって気づき、謙虚になって弱さを認め、真に頼るべき方を見出して、生きるとい

う真理を掴んでいるのが信仰者であるという反論が出来ないわけではありません。

 

 信仰を否定したり、信ずるものを見出せず、恐れ、絶望している人を見るにつけ、信仰によって、弱い者が真に強くさ

れ、貧しいものが真に豊かにされ、卑しいものが真の尊さ、偉大さを身に着けられる恵みを知るにつけ、信仰を否定する人

たちに対してすごく残念に思うし、ずっと老いるまで、死ぬまで信仰を全うしていかかなければならない、信仰を捨てては

ならないと強く思います

 

 残念ながら、さまざまな苦難などの危機に遭遇して、自分に躓き、他人に躓き、神に躓いて、信仰を捨て、信仰をなくす

人が多い。

 

 紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚という国が破れる苦難の危機に遭遇し、心を頑なにし、生ける神への信頼を亡くしてい

るイスラエルに対して、預言者イザヤは、「私に聞け」と呼びかけます。

 

イザヤは、今だけを見ないで、初めからのこと、これまでの神の働きかけのことを思い起こしなさい。そうすれば、出エジプトの出来事のように、神が生まれた時、今日まで、担い、背負い、救い出していたことが分かる。そしてバビロン捕囚という苦難は、神の恵みに背を向け、神の愛の支配から逃げた結果であると指摘します。

 

イザヤは、人間によって担がれ、何にも働きかけが出来ない、偶像なる他の神々と違い、神は人間が生まれた時から、死

ぬまで、担い、背負い、救い出す方である。この神の約束に立ちなさいと言う。

 

 過酷な苦難を背負っているハンセン病の人たちの中で、神の約束を信じたキリスト者が輝き、毅然として生き、良き証を

しています。

 


 

 2019年11月3日

   題:自分の十字架を背負う   聖書:ルカ福音書9:2127

 

 私たちの人生は、いろんなことで判断し、選択をすることが求められ、いろんな岐路に立たされ、どちらかを選択しなけ

れば生きていけないと言えます。

 このような時に、賢明な選択は楽な道を選ばずに、困難な道を選ぶことであるということが言われる時があり、楽な道を

選ぼうとする私たちにとっては厳しく感じると言えます。

 

 確かに楽する道は安全であるけれども、変化が生まれず、それどころか、廃れていく運命にあり、反対に、感動が生ま

れ、成長し、成熟していくためには困難な道を選ぶことが必要になると言えます。

 

 ですから、「苦労は買ってでもせよ」という言葉があるのかもしれません。ただこの言葉は自分自身に言い聞かせる分に

は問題ないのかもしれませんが、他人に求めることは無責任のそしりを免れないと言えなくもありません。

 

 キリストは、「十字架を背負う」ことを勧めています。キリストが勧めるこの言葉には無責任な感じはないし、むしろ確

信をもって勧めているのが伝わってきます。

 

 キリストは、いやいやではなく、積極的になって、さまざまな困難なことを引き受けなさい。自分を捨てて、自分の思い

や考えを捨てて、苦労を与えている事柄や人を受け入れなさいと勧めています。

 

 キリストはなぜこのような引き受けたくないと思われるしんどいをことを受け入れなさいと勧めているのか。それは困難

なことは神が愛の課題として、愛の心を育て、愛の人になるために、イエスのように、真の強さ、真の豊かさ、真の偉大さ

を身に着けられる人になってほしいために与えられる課題であるからと言われています。

 

 十字架を背負う課題を引き受けていくために必要なことはただイエスに従い、信じ、祈るという信仰に生きるしかありま

せん。

 


 

 2019年10月27日

   題:イエスは何者か   聖書:ルカ福音書9:1820

 

 私たちは他人の評価が気になり、他人が自分のことをどう思っているのかについてすごく関心を寄せています、他人の評

価に一喜一憂し、時には落ち込み、時には自信を得、人生が大きく変わる切っ掛けになりうることも少なくありません。

 

 イエスも、人々の評価に関心があり、積極的に人々がどう思っているかを聞こうとされています。

 

 ペトロから「神からのメシアです」という評価の言葉を聞かれた時、イエスは安堵し、これまでの弟子たちに対する働き

かけがうまくいっていることを確認できたに違いありません。

 

 「神からのメシアです」という信仰告白にはさまざまな大事な意味が込められています。

 

 一つは、ペトロなどの弟子たちが、イエスの神の業の働きの協力者にされ、必要とされ、用いられる資格を得ることがで

きるのは、何かの優れた能力の有無に関係なく、ただ信仰告白によってであることが示されています。ありがたいことで

す。希望があります。

 

 二つ目は、この告白は、この世の価値観を捨てて、神の価値観に生きる選択をすることを示しています。つまり、財産や

地位などのこの世の価値観を絶対的な価値としないで、過ぎ行くものとみなしながら、国籍は天にある、真の故郷は、永遠

の命に生きる神の国であることに絶対的な価値を見出して、一日一日を大事に生きることができる力と知恵がこの告白に

よって与えられることです。

 

 三つ目は、神がメシアをこの世に遣わしてくださっていることは、生ける神はこの世を支配し、顧み、私たち一人一人を

見守り、神の国の実現のために働いているという希望があることが示されます。

 

 この恵みや希望が私たちにおいて実現するために、今、私たちに自覚的な、主体的な告白ができるかどうかが問われてい

ます。

 


 

 2019年10月20日

   題:奇跡を産む愛   聖書:ルカ福音書9:1017

 

 五つのパンと魚二匹でもって5千人以上の人のお腹を満たすというこの奇跡を事実ではないし、誇張した表現であり、満腹

したのは、お腹ではなく、心が満たされたという形で理解する人も多い。

 

 この奇跡を事実として理解できる人は、残ったパンの屑が十二もあったという記述や、四つの福音書全部に収められてい

るわずかの箇所の一つであるということ、それほどに大事にし、読み、励まされ、希望を抱いていたということに注目する

のかもしれません。

 

 自分たちの力がわずかなものであり、悲観的になり、失望してしまうような状態に置かれていても、神の力を受けるな

ら、神の大いなる力が働くならば、何かすごいことが起こる可能性があるのだと期待でき、その厳しい状況に忍耐し、希望

を抱くことが出来る箇所として読み継がれていたのかもしれません。

 

 イエスはこの時、わずかな量を手にされ、祈りをささげています。必ず祈りが聞かれて、大いなる業が実現するという確

信をもって祈る姿が見られます。なぜなのか。それは、神の大いなる力は愛の中で働く。その愛がご自分にはある。つま

り、集まっていた多くの人たちの思いに寄り添い、飢え渇きなどで困っているのを助けてあげたい、何とかしてあげたいと

いう切実な思い、他人の苦しみを自分の苦しみと受け止める思いやりと愛がご自分にはあると確信していたからかもしれま

せん。

 

 イエスが、遣わされた伝道の働きから帰ってきた弟子達の疲れや失望した姿を見て、弟子たちに自分たちで食事を与えなさいという指示をされ、そこで奇跡を示されたのは、小さき弟子たちが希望をもって伝道に励んでもらうためであり、大いなる神が共にいて助けてくださるためには愛が必要であることを気づかされるためであると言えます。

 


 

 2019年10月13日

   題:光と闇の創造者   聖書:イザヤ書44:2445:13

 

 数多くの神々が人間の願いや願望から作り出され、崇められるのと違って、聖書の神は、神みずからが人間に働きかけ、

言葉をかけ、導く存在であることが示されています。

 

 生ける神に出会い、圧倒的な力に触れ、こなごなに砕かれて、無に等しい存在であることを気づかされた預言者は、神は

生きておられ、すべてを創造し、すべてを支配している唯一の神であり、この神の他に神はいないし、崇められている神々

はむなしい存在であることを証ししています。

 

 聖書の神と神々との違いの一つは、苦難に対する受け止め方です。神々は苦難はあってはならないし、苦難があるなら

ば、それは苦しんでいる者の信仰が足りないからであると教えています。

 

 聖書の神は苦難を否定し、呪われていることとはみなさないで、苦難があることで神の存在が否定されるわけでもなく、

むしろ苦難を創造し、支配しているし、苦難を通して、希望や平和をつくりだすことが出来る方であり、苦難を通して神が

神であることが分かるようになると教えています。

 

 苦難が躓きとなり、なぜこんなひどいことが起きるのか、本当に神は愛であり、大いなる力をもって私たちの救いのため

に働いているのか、信じられないと判断し、神の存在や愛を信ずることができなくなり、神を否定する人も数多くいます。

 

しかし、レーナ・マリアさんのように、重い障害をもって生まれるという苦難を背負って生きているのに、神に守られ、

愛され、生きる力を得て、誰よりも前向きに、腐らず、乏しさを感じずに、喜んで、感謝して生きている人もいます。

 

苦難を引き受けられ、十字架につけられて死んで、復活されているキリストが、生ける神にすべてをゆだねなさいと命じています


 

  2019年9月29日 

    題:悲しみから喜びへ    聖書:ルカ福音書8:4056

 

  病が癒される奇跡が行われている中で、不思議に思うことは、イエスは、ある時は奇跡の業をはっきりと示そうとする

けれども、他の時は、絶対人に伝えないようにと口止めをされることがあり、

 

なぜ矛盾したことをなさるのかということです。

 

 その答えは、「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉にあると言えます。つまり信仰によって救いが得ら

れる恵みは病の癒しだけではなく、存在そのものが受け入れられ、赦され、祝福されるという大きな、豊かなものであると

いうことを伝えたかったということです。

 

 12年間も患い、悲しんでいた血の病をいやされた女の人は、身体だけではなく、心も病み、傷つき、みじめな思いを持っ

ていたに違いありません。身体の病いだけをいやされても、悲しみは消えず、本当に心から喜べることはなく、心の闇は消

えずにいただろうし、イエスはそれをよくご存じであり、心から安心し、達者になって、元気になって立ち上がっていく救

いが、罪の赦しという存在そのものが救われる救いが必要であると思われて、「あなたの信仰があなた

 

を救った」とう言葉を掛けられているということです。

 

 イエスはこの言葉を通して、信じて祈れば必ず病が癒されることはないし、祈って病が癒されなければ、信仰が足りない

ということでもない。しかし、救いは信ずるならば必ず起きるということを伝えたいという思いがあったのではないか。

 

 信仰があるならば、病いが癒されることはなくても、安心して、元気になって、希望をもって立ち上がって生きていける

救いは必ず実現することがどんなに確実なことであるかを明らかにしているのが、ヤイロの死んだ娘をいやされる出来事、

つまり絶対起こりえない死人を生き返らせる救いが起きている出来事です。

 


 

  2019年9月22日

   題:悪霊を追い出すイエス    聖書:ルカ福音書8:2639

 

 家族から離れて、奇妙にも墓場に住み、鎖につながれなければならないほどの、暴れまわり、狂乱する振る舞いをしてい

た悪霊にとりつかれていた人がイエスと出会い、救われ、正気に戻り、人間性を取り戻すことが出来た人の救いが示されて

います。

 

 この救いが本人にとつても他人にとっても、とても驚くべきことであり、絶対ありえないと思える救いが実現しているこ

とが示されて、救われない人はだれもいないし、皆どんな人も救われるし、神の救いはすべての人に開かれているという

メッセージが示されています。

 

悪霊にとりつかれている人がイエスに出会ったときに、彼はイエスにあなたと関わりたくない、ほっといてくれと叫んで

います。このことは悪魔というのは、神が嫌いであり、神なしで、人間一人で生きてきたいという思いを持っていること

が示されていることになり、また、ペトロがイエスに厳しく叱られているように、人間的な思いは悪魔的になりうること

が教えられています。

 

 主イエスと悪魔との問答のことが記されているのは、なぜであるかというと、それは、悪霊に取りつかれていることは、

単なる心の病いの症状ではなく、人間に働きかける力であり、悪魔を表すのに軍隊用語であるレギオンという言葉が使われ

ているのは人間を破壊する悪魔の力は、絶大な力を持っていることの示しがあることです。

 

 この悪霊を追い出す主イエスが来られていることは、この世にヒットラーのような悪魔の力に取りつかれた人が残虐なこ

とをしたとしても、時が来れば、真に支配している神は救いのために行動し、人を遣わし、悪魔の力を粉砕し、平和を実現

するというメッセージが示されていますし、そう信ずるところに希望があります。

 


 

 2019年9月15日

   題:神に倣う者    聖書:エフェソ書4:255:5

 

 悪魔にすきを与えているような、情けなく、恥ずかしくなる、品のない古い生き方として、平気で人にウソを言い、盗

み、怒り、引きずり落す生き方、つまりあおり運転をしたり、オレオレ詐欺をしたり、人の名誉や地位を奪ったり、文書改

ざんをしたりする悪意に満ちた生き方が示されています。

 

 パウロは、エフェソ教会の人たちに、こんな古い生き方を捨てて、新しい生き方をするようにと勧めます。つまり、真実

に生き、怒りを捨て、赦し、他者のものを盗まずに、困っている他者を助け、他者を生かす生き方をするように、すなわ

ち、人を物として扱わずに、人を隣人として、我と汝という関係の中で、お互いが助け合い、支えあい、高めあう関係の中

で生きていくように勧めています。

 

 新しい生き方を勧める理由の一つとして挙げていることは、お互いに体の一部であるということです。すなわち、お互い

はつながっており、お互いのおかげで生きることができており、みな自分一人では生きていけないし、他者を苦しめること

は自分を苦しめていることであり、他者を貶めることは自分を貶め、自分をダメにすることになるからということです。

 

 新しい人間になり、真実に生き、赦し、他者を敬い、他者を生かして生きる、新しい生き方に大概の人が望み、憧れ、そ

のように生きたいと願うけれども、実際は難しいと思う人が多い。

 

 実際に新しい人間として生きられたイエスが見倣うべき存在として示されて、イエスを信じ、イエスにつながることが実

現するならば、イエスの豊かな力と命が注がれて、神の愛に生かされて、新しく生きていける。つまり、おごらず、卑屈に

ならず、人と比べず、面白がって、どんなことにも感謝して、平気で堂々と生きる憧れの生き方ができると勧めています。

 


 

 2019年9月8日

    題:唯一の主なる神    聖書:イザヤ書44:182123

 

 私たちの人生はさまざまな不安や恐れに囲まれていると言えるし、その中で、「恐れるな、大丈夫だ」という言葉を聞く

ことができるなら、こんな慰めはありませんし、ありがたいことです。

 

 本日の箇所において、神からの言葉が記されている理由として考えられることの一つは、人間からの言葉もなぐさめにな

るけれども、人間の言葉は限界があり、不完全であるから、真に慰められ、完全に恐れから解放されるためには、神からの

れるなという言葉が必要不可欠になるからということかもしれません。

 

 真に慰め、真に恐れから解放することができるのは、神が主であり、贖い主であり、創造主であり、世を支配ししてい

る、全能の、生きておられる神、唯一の主なる神であるからであると教えます。

 

 唯一の主なる神が、恐れるなと呼び掛けている相手は誰であるかというと、それはイスラエルであり、紀元前6世紀にバビ

ロニアによって国が滅ぼされているイスラエルでありました。

 

 生ける神はそのイスラエルに対して、「新しい時が来る、これからは豊かな実りを結ばせる時代が来る、すべてを赦す完

全な愛によって祝福される。恐れることはない。」という言葉を掛けられます。

 

 この言葉を聞き、信ずることによって、死などの恐怖のただなかにある人の中で、慰められ、恐れを取り除き、すべてを

ゆだねて、毅然としていきることが出来た人が数多くいます。

 

 見えない存在である神を信ずることが出来ず、人間などの見える力を絶対化し、ローマの皇帝礼拝のように人間を神とし

てあがめる偶像信仰に生き、裏切られ、悲惨な目に会う人が数多くいます。

 

 イエスは、見えないけれども、全能の力をもって支配している神が真に存在し、真に畏れるべき方である唯一の神の「恐

れるな」という言葉を信ずるならば、すべてをゆだねられると証されています。

 


 

  2019年8月11日

    題:「豊かに実を結ぶ人」  聖書:ルカ福音書8415節 

 

 まかれた種からきれいな花が咲き、おいしい野菜や果物が実る出来事を通して、種に命が宿っていることが確認できま

す。本日のたとえでは、神の言葉によって人間の心が豊かになるという実を結ばせる課題を取り上げているところにおい

て、種のたとえが用いられているのは、神の言葉には命があることを示しています。

 

 主イエスがこのたとえを取り上げたのにはどんな時にも希望に生き、喜び、感謝できる豊かな生き方をもたらす神の言葉

を宣べ伝えてほしいという願いが込められているに違いありません。

 

 神の言葉を宣教する働きは簡単ではなく、さまざまな困難や試練が伴うが、しかし、神の言葉には命があるから、いつか

必ずその働きは無駄になることなく、実るから、報いられることが来るから、確信をもって、希望をもって、一生懸命に伝

道してほしいという強い思いが主イエスにあるように思います。

 

主イエスが豊かに実を結ばせる種である神の言葉を宣べ伝えてほしいと思われていることの一つは、豊かな心の人が少な

く、心の貧しい人が多かったからであり、その人たちに豊かな心を取り戻してほしいという願いがあったと考えられま

す。

 

 心の貧しい人とは、いろんなことによって自分を卑下している人であり、傲慢な心を持ち、他者を助ける心がない人です。

 

 豊かな実が実るためには、命の種である神の言葉を聞くという課題がありますが、この聞くという課題は簡単ではなく、

聞いて、信じることは本当に難しいし、さまざまな困難や試練を乗り越えていかなければならないということが示されてい

ます。

 

 あきらめずに、落胆せずに、絶望せずに、忍耐して、アブラハムのように、ただ信じていく、一途に信じ抜いていくしか

ない。そうすれば、必ず神の言葉にある命に触れ、感動し、豊かに実がなると教えています。

 


 

  2019年8月4日

   題:「御国の到来」  聖書:ルカ福音書6910節 

 

 戦争の悲惨や平和の尊さを特別な思いで考えさせられる8月を迎えている今、毎年戦争や内乱及びテロによって命をなくす

人が15万人いて、過酷な難民生活を強いられている人が7,000万人もいるし、人権が奪われ、差別を受けて、平和な心が持て

ず苦しみ、絶望している人が数多くいるという厳しい現実があります。

 

 このことを憂い、その人たちの苦しみや悲しみを自分のことのように受け止め、和解のために、平和を実現するために取

り組んでいる人達が数多くいます。

 

 それらの人たちの中に、贖いと赦しであるキリストの十字架の救いの中で、神との和解が実現し、そのことによって自分

自身との和解が生まれて、自分の心に平安や喜びが生まれることによって、他者との和解ができる心が出来て、平和を実現

する働きに励んでいる人も多くいるに違いありません。

 

 キリストは、主の祈りの中で、御国が来ますように、という祈りを教えておられます。すなわち平和を実現する御国が来

るために行動を起こしなさいと勧めているのではなく、そうではなくて、祈りなさいと勧めておられます。この勧めに慰め

と希望があります。

 

 祈るだけではだめだ、行いがないとだめだという強い声が聞こえてくる中で、イエスはどうして祈りなさいと勧めておら

れるのか。

 

 それは、平和の実現は神の業であり、神の働きなしでは実現しなし、祈りが用いられて、大いなる生ける神は平和を実現

するという確信があったからであり、真剣な、熱心な、希望をもって祈る祈りが足りないからという思いもあるのかもしれ

ません。

 

 平和実現のために祈りが大事であるというイエスの勧めは、無力を感じている者には慰めであり、行動に行き詰まりを感

じている人にとっては希望になるに違いありません。

 


 

  2019年7月28日

   題:「真理に基づく生き方」  聖書:エフェソ書41724節 

 

 西暦が使われるようになったのは、532年ごろからで、その根拠として言われているのは、キリストの誕生です。つまり、

キリストが今までと異なる新しい考え方、生き方、価値観を教えられたことを画期的なこととして認めるということかもし

れません。

 

 新しい生き方とは、人間中心的な価値観を古いものとして捨てて、神中心的な生き方に変えていくと言ってよいかもしれ

ません。

 

人間中心的な古い生き方とは、人間の欲望や本能のままに生きること、自分中心に生きること、そして人間の力に偶像の

神々のように絶大な信頼を寄せて生きることです。

 

 神中心的の新しい生き方とは、欲張らずに、与えられていることに感謝して生きること、他者を大切にする愛に生きるこ

と、神の力と愛に絶大な信頼を寄せ、神にとつて皆すべての人が平等で尊い存在であることを信じて生きることです。

 

 古い生き方を捨てて、新しい生き方をする人はどうしても少数者として生きざるを得なくなり、肩身の狭い思いをし、裏

切り者、売国奴と言われ、村八分的な扱いを受け、差別的な扱いを受ける厳しい困難に直面し、自由、主体性、個の確立が

脅かされます。

 

 この厳しい試練にさらされて、心が揺さぶられ、迷い、躓き、敗北して、全体に流され、同調し、巻き込まれてしまいま

す。

 

 そうならずに、さまざまな不安や恐れから解放されて、自由、主体性、そして個の確立を守って生きていくために必要な

ことは、真理に基づく生き方であると教えられています。

 

 真理とは何か、それは、この世を真に支配している方は、イエス・キリストの神、全能の創造主なる、生ける神であり、

この愛の神が私たちと共におられることであり、この真理そのものであるイエスを信ずることによって、新しく造り変えら

れるということです。

 


 

   2019年7月21日

     題:「赦されているから」  聖書:ルカ福音書73650節 

 

 主イエスは、「あなたの罪は赦されている。もう罪のことで後悔し、嘆き悲しみ、恐れ、絶望することから免れている。

だから安心して堂々と生きていきなさい」と仰っています。

 

 ある時、主イエスは、ファリサイ派のシモンから招待を受けて食事をしていました。そこにある女がその家に入ってき

て、泣きながらイエスの足に接吻し、香油を注ぐという愛に溢れた行為をします。

 

主イエスは、この女のすべてをささげる愛のふるまいを見て、この女性のふるまいは赦されていることから来ている。大

きく深く赦されていると感じているから、このような大きな愛のふるまいが生まれていると語っています。

 

 ファリサイ派のシモンは、この罪深い女が家に入ってきて、イエスに近づき、触れ、愛溢れるふるまいを見て、怒り、な

ぜこの罪深い女を受け入れるのか、なぜ裁かないのか、罰するべきではないかと思って、何もしない主イエスを非難し、そ

して客として迎えるのにふさわし挨拶や尊敬を表す愛のふるまいをしませんでした。

 

 主イエスは、愛のないシモンに対して、一つのたとえを示しながら、自分の負い目や負債に気づかずに、自分の罪をみと

めることが出来ず、自分は赦しは必要ないし、むしろ正しい人間であるという傲慢な思いが、愛のないまずしい人間を作り

出し、赦されているという自覚から愛が生まれることに気づかせようとしています。

 

 主イエスは、愛のないシモンからの招きを受け入れられているのは、神の赦しはすべての人に向けられているし、すべて

の人が赦されている、赦されてない罪はないことをわかってもらうためだったに違いありません。

 

主イエスは、神の権威をもって、すべての人に「あなたの罪は赦されている。愛の力となる神の赦しに生きなさい」と呼び

かけます。

 

 

  2019年7月7日

 題:「あなたは値高く、尊く」  聖書:イザヤ書4317節 

 

 「あなたは値高く、尊い存在である。私はあなたを愛しています」という甘く、心ときめく言葉を聞いて、私たちは自分

の尊厳さを感じることが出来ます。しかし今、いろんな理由によって、自分の尊厳さを感じられないで、引きこもる人が多

くいる厳しい現実から判断すれば、この愛の言葉を聞いたり、伝えたりすることが少なくなっているということかもしれま

せん。

 つまり家族や友人などの親しい関係であるから感じる愛情や、何か優れた力があり、そのことに魅力を感じて愛する感情を聞いたり、語ったりすることがなくなり、というよりも怒りや憎しみそして排除という感情が多く生まれていると言えるのかもしれません。

  親しい関係でもなく、何か価値を見出せることもなく、何にもなくても、つまらなくても、罪深い者であっても、あるがままの存在を受け入れ、大事にし、愛する愛によって、値高く、尊い存在としてみなしてくれるのが神の愛であると教えています。

 イザヤは、神に背いたことによって、神の助けが得られずに、裁かれ、国が滅び、悲惨な状態に置かれ、誇りと尊厳さを

見失ってい るイスラエルの人々に対して、神の愛の言葉を語り、恐れることはない、贖われている、いつも神が共にいてく

ださるから、大丈夫だ という力強い言葉を伝えています。

 この言葉によってイスラエルの人たちは、どんなに慰められ、元気づけられたことか、尊厳さを取り戻すことができたこ

とか、そし て「良き知らせを伝える者の足は何と美しいことか」という言葉によって示されている人がイザヤであると確信

したに違いありません。 

 私たちが自分の課題として、愛の言葉を語ることに責任を感じ、使命を感じることが出来るならばどんなに幸いであるこ

とか。その ためにただ神の救いと愛に生きるかどうかかもしれません。

 


 

   2019年6月30日

   題:「神の招きにふさわしく」  聖書:エフェソ書4116節 

 

 生きがいや生きる目標となることがいろいろとあり、私たちも、 さまざまなことに生きがいを見出すことをしています。

本日の箇所 に於いて、努めなさいと言われている生き方も生きる目標の一つとして示されていると理解できます。

 「謙虚になること、柔和であること、寛容であること、愛をもって忍耐すること、平和であること、一致すること」とい

う生き方を つまり、見えない心の在り方を生きる目標にする人は、多くないと言えるし、多くの人は、目に見える結果を、

仕事や富や地位そして すごい行いをすることを生きがいにしています。

 このような中で、見えない心の在り方を生きがいにするように勧める理由には、どんなことがあるのかと考えさせられま

す。 

 一つは、謙虚で、柔和で、寛容で、愛で、忍耐である生き方は、まさに人に仕える生き方であり、この生き方こそが真に

偉いことで あるからということかもしれません。

 もう一つは、心の在り方の生きがいは、病気になったり、能力が衰えたり、身分や地位がなくなるという外なる環境に影

響されず、 廃れず、消えず、死ぬ間際まで持ち続けることができるから。

 この生き方を生きがいにすることに関心を寄せることが少ないと思われるのは、この生き方をするのは、自分の思いを捨

て、犠牲に することが求められるので、しんどく、つらく、苦しく感じ、自分の非力や無力を感じて難しいことであると

いうからかもしれない。

 これらを乗り越えて、喜んで、積極的になって、この生き方を生きがいにしていこうという思いを与える神の臨在を感じ、キリストの働きを受けていると実感できるためには、憐みの神の招きを受けて、招きにふさわしくないのに、ふさわしい者として受け入れられて、教会にいると自覚し、それを確信することであると言われます。

 


 

  2019年6月23日

   題:「イエスに躓かないために」  聖書:ルカ福音書71835 

 

 主イエスが「私に躓かない人は幸いである」というすごい自己証 言をされたのは、バプテストのヨハネから、「来るべき

方はあなたで しょぅか。それとも他の方を待つべきでしよぅか」という質問を受けた時でした。

 主イエスは、ご自分を信じ、忠実であるかどうかによって、祝福が得られるかどうかが決まるというすごいことを、救い

主であるこ とのしるしとなる奇跡を、普通でない特別なことを示す、さまざまな奇跡を行っていることを示した後に、この

証言をされています。 

 主イエスが、なぜ躓かない人が幸いであると言われたか、それは、ご自分の言葉や行動に人を躓かせるものが多くあると

思われたのか もしれません。つまり、救いを力強さや権力そして行いによる義と理解していたために、罪人をそのままで受

け入れ、寄り添い、とこ とん赦しながら、十字架の道を歩む生き方に弱々しさ、小ささ、低さ、愚かさを感じて、多くの

人々が躓くことです。 

 この時、主イエスは、「躓く人は不幸だ、祝福されない」という排除し、断罪する決定的な言葉を言わなかったことに

は、何かの意味 があるのか、それは何であるかと思います。

 それは、躓くことが全くダメだということではなく、躓きがかえつて信仰の門を開く切っ掛けになりうる。つまり傲慢に

ならず、謙 虚になるという悔い改める心が出てきて、神の救いや正しさに目が

開かれ、真に深く信ずることができると思われたのかもしれません。

 躓かないために必要なことは、主イエスに忠実になることによって得られる幸いや祝福がどんなに特別なものであるかを

理解できる こと、つまり、この世では得られないところの魂の救い、偉大な者として評価されること、神の救いの技に用い

られるという大いなる、 豊かな祝福であることに気づくことです。

 


 

  2019年6月16日

    :「幽霊・悪霊・聖霊」  聖書:エゼキエル書37114     ヨハネ福音書1415節~17

 

 聖霊は、怖い、不気味というイメージの幽霊のようなものではなく、混乱させ、滅ぼす悪霊のようなものでもなく、そうではなくて、人を安心させ、よりよく生きていく力を与える働きであります。

 

 エゼキエル書には、甚だしく枯れている骨のように死んでいるような状態であっても、そこに聖霊が注がれるならば、生き返ることができることが示されています。

 

この言葉を聞いたイスラエルの人たちは、バビロン捕囚という国が亡びている状態の中で、屈辱を味い、絶望している思いから解放されて、生きる力を取り戻し、誇りと自信をもって生きていくことができたに違いありません。

 

 創世記に、土で形づくられた人に神の霊が注がれることによって生きる者になったという言葉がある通り、聖霊は、私たちが悲しみや絶望を乗り越えて、生き生きと、喜んで、希望を抱いて、命の大切さに気づいて生きていくために必要であることを教えています。

 

 キリストは、私たちに、真理の御霊であり、弁護者であり、愛することができない者に愛することができる力を与える助け主であり、慰め主である聖霊を与えると約束されています。

 

 聖霊が与える慰めとは何かというと、この世では得られない平安、孤独ではなく、いつも神が共にいてくださるという確信、あるがままで、赦され、愛され、かけがえのないものとして生かされているという神の愛に気づくことによって得られる慰めです。

 

 聖霊の働きを受けるために必要なことは何かというと、それは、聖霊が注がれて教会が誕生、弟子たちが本当に生まれ変わることが出来たペンテコステの出来事によって示されているように、約束の言葉を信じ、自覚し、確信してひたすら祈ることであります。

 


 

 2019年6月2日 

   「見よ、新たな時」   イザヤ書4219

 

 預言者イザヤは、神の言葉として、「見よ、私の僕」「見よ、新しいことを告げる」と呼び掛け、あなたにとつて必要なこと、大切なこと、価値あることであるから、注目しなさい。ぼんやりではなく、よそ見でもなく、ましてや目を閉じないで、しっかりと、見開いて、心を込めて注目しなさいと言っています。

 

 この呼びかけに、今満足している人は、心を動かすことはないのかもしれませんし、今のままではだめで、もっと豊かな、大きく、強くならなければならないと切望している人は、この呼びかけに、神の想いを感じて、つまり、悲しみ、絶望し、自信を無くしている私たちをほおっては置けない、なんとかしてあげたい、明るく、自信を持ち、誇りをもって生きていけるようにしてあげたいという神の熱き思いを感じて、心を動かし、強い関心を抱く人もいるのかもしれません。

 

 神が告げている「新しいこと」とは何かというと、救いのことであり、つまり、失われている神の愛に気づかせ、さまざまなことにとらわれることによって見失っている自由を取り戻し、不安や恐れを抱いている闇を取り除いて、希望という光をもたらすことです。

 

 この新しい救いの約束の言葉を告げているのは、何の力を持たない偶像なる神々ではなく、そうではなくて、すべてを創造し、支配し、導いている唯一の生ける神であることを伝えています。

 

 この約束の言葉が実際に見える形でこの世に実現し、私たちが理解し、信頼できるようにするために、生ける神は、選び、神の力を注ぎ、救いを実現するのに必要な力を持つ主の僕を遣わすと約束し、約束通り遣わしたのは、モーセであり、イエス・キリストです。

 

 生ける神が私たちの最後は闇ではなく光であり、喜びであり、死ではなく命であると約束する言葉を信ずる人は幸いです。

 


 

 2019年5月26日 

      「神の家族」   エフェソ書21122

 

 家族やいろんな共同体などのさまざまな人とのつながりがある中で、神の家族が取り上げられています。

 

 神の家族の特徴の一つが、一つになれることです。つまり、血族や民族が同じであっても、一つになることが困難であり、ましてや、さまざまな違いがあるならばさらに難しくなる中で、神の家族においては、その違いを乗り越えて、一つになっていることです。

 

 神の家族が、さまざまな違いを乗り越えて、一つになることが出来るのは、敵意が滅ぼされ、平和を実現することを望み、働くことができる「新しい人」が存在し、さまざまな違いがあっても、皆同じ人間であるという理解と自覚の中で生きているからであり、そうなっているのは、和解があるから、神による和解が、神がもたらしてくれている和解があるからであると言われています。

 

 こうすべきだ、こうあらねばならないという律法によって、隔ての壁が造られ、敵意が生まれ、差別や偏見が生じ、共に生きていくことが出来なくなっている状態のところに、キリストの十字架の贖いによる赦しと愛により、神との和解が生まれ、人と人との間にも和解が生まれ、違いを乗り越えて、一つになり、共に生きる共同体、喜びと幸いをもたらす神の家族が実現していると言われています。

 

 争いや対立があるエフェソ教会に対して、パウロが、あなた方は神の家族であると呼びかけているのは、教会にはキリストが臨在し、聖霊が働いているから、一つになることが必ず実現するという期待があるからです。その期待に応えるために、罪深い者が恵みによって救われていることを忘れず、心に留めるようにと言われています。

 

私たちが、良きサマリヤ人のように、敵意を捨て、さまざまな壁を乗り越えて、他者と、特に弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、共に生きていくことの期待が示されています。

 


 

  2019年5月19日

     「心にかけてくださる神」   ルカ福音書71117

 

 イエスの奇跡に躓く人や、奇跡抜きのイエスの教えや考えだけに注目して読んだり、奇跡を精神的な意味に理解する人がいる中で、聖書は、イエスの奇跡を神の技として理解し、奇跡をおこなうイエスを神から遣わされた預言者として理解する中で、神がユダヤの民を心にかけてくださっている出来事であることを示しています。

 

 神から心にかけられていることを確信することによって、イスラエル人達は、奪われていた神の民の誇りや失くしていた自信を取り戻すことができるという期待を抱くことができたのかもしれません。

 

 イエスがナインという町で葬儀に遭遇し、そこで、一人息子を亡くした、やもめの母親の深い悲しみに共感し、心の底から動かされ、深く憐み、自分のことのように受け止めて、号泣しているやもめの母親を励まし、慰めようと思われて、「もう泣かなくてもよい」という言葉を語ります。

 

 イエスの言葉には、気休めや同情的な人間の言葉と異なって、号泣させ、悲しみを与えている事柄を取り除くことができる権威があり、死んで棺に入れられている息子に「起きなさい」という言葉がかけられることによって、実際に死んでいた息子が生き返るという奇跡が起きています。

 

 この奇跡によって、やもめの母親は、感じていた罪責感や母親としての無力感が癒され、無くしていた母親としての自信を取り戻すきっかけを得ることができたのかもしれません。

 

 主イエスも、無名な存在を用いて、力ある業を行うことによって、

 

私たち皆を心に掛けていることを表し、皆が自信をもって生きていくようにとの願いを強く持っていることを示しています。

 

「最上のわざ」の詩にあるように、どんな人も、人の為に、神のために働ける技である「祈り」によって自信を得ることができます。

 

 

  < 最上のわざ>

 

    この世の最上のわざは何?      楽しい心で年を取り働きたいけど休み   

 

    しゃべりたいけれども黙り

 

    失望しそうなときに希望し 従順に、平静に、

 

おのれの十字架をになう

 

    若者が、元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、

 

ねたまず、人の世話に働くよりも、謙虚に人の世話になり

 

    弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること

 

    老いの重荷は神の賜物、

 

古びた心に、これで最後のみがきをかける

 

    まことのふるさとへ行くために

 

    おのれをこの世につなぐくさりを、少しずつはずしていくのは真にえらい仕事

 

    こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。

 

    神は最後に一番よい仕事を残してくださる

 

    それは祈りだ。

 

    手は何もできない。けれど最後まで合掌できる

 

    愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために

 

    すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう

 

    「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と

 


 

2019年4月28日

   題:「豊かな恵み」  聖書:エフェソ書2110

 

 私たちが今、ここに、教会にいるのはどうしてか。それは、神の救いにあずかり、救われているからであり、私たちの行いや意志に関係なく、神からの賜物として、一方的な神からの招きによって、神の憐みと愛による恵みによって、救われているからです。

 

 私たちがこのことに気付き、合点がいき、信ずるならば、自分がここにいてよいのかと思って、心を閉じることなく、なぜここにいなければならないのか思って、心をかたくなにせずに、そうではなく、心地よい気持ちが生まれ、ここにいてよいのだ、いなければならないと思う思いを持つことができるのかもしれません。

 

 さらに心地よさを大きく膨らませるのが、神の恵みが限りなく豊かであるということです。パウロはこのことに気づかせるために、私たちを過去に心を向かわせ、これまでの生きざまにしっかりと向き合わせようとします。つまり、恥ずかしい思いや心を痛めるという思い、絶望してしまう思いを抜きにしては思い出すことはできない、死んだも同然の罪深い過去に向き合わせ、悔い改める中で、死んだも同然の罪深い自分が赦され、救われて、今ここにいることができるのは神の限りない豊かな恵みであることが示されます

 

 このことに気づき、納得し、悔い改めて、信ずるならば、私たちにおいて、さらに深くて、大きい、豊かな心地良い気持ちが生まれるはずであると訴えています。

 

 大きな豊かな心地良さを与える神の限りない豊かな恵みは、今が幸せであるだけでよいという思いにとどまらせずに、未来に心を向けさせ、これから何をすべきか、神の恵みにどう応えていけばよいか、良い業を行っていかなければならない、イエスが教えているように、小さくされ、弱い立場に置かれて、差別や偏見で苦しんでいる人たちに寄り添っていくという課題に気づかせます。

 


 

2019年4月21日

   題:「死・復活・希望」聖書:ルカ福音書24112

 

 いろんな形で、失敗したり、敗北している人が、あきらめずに、頑張り続けて、成功したり、勝利したりする時、復活という言葉が使われ、実際に復活した人を見ると、私たちはうらやましくなり、元気を与えられますが、その人から復活する力を与えられることはありませんし、できません。

 

しかしキリストの復活は、そうではなくて、私たちに復活する命が与えられることが示されています。例えば、ペトロなどの弟子たちが、弱さや臆病のためにイエスを裏切り、絶望してしまったけれども、復活したキリストに出会って、本当に新しくされ、生き生きとして、嬉々として、雄々しくなって、立ち上がって生きることができるようになった、ようにです。

 

だからキリストの復活は喜びであり、希望であると言われています。なぜなら、キリストの復活は、人間が絶対に勝つことができない死の力に勝利しているからであり、キリストが復活したのは、生ける神の力が働いたことによるからです。

 

死に勝利する復活の出来事を通して、生ける神は、全能の、創造主なる、すべてを支配している、唯一の永遠なる神であり、さまざまな権威や権力などのこの世の力がどんなにのさばっていても、生ける神の前にはむなしい存在であることが教えられています。

 

 十字架につけられ、死んで、墓に葬られ、冷たくなった体に再び命が与えられ、死ぬ前の体とは異なる霊の体によみがえり、今も生きているというメッセージは、ばかげた、荒唐無稽なことのように思い、受け入れることは難しい。ただ信ずるしかありません。しかし、信ずるならば、復活の力が与えられて、寝たきりの生涯を生きた水野源三さんのように、感謝し、喜び、心の安らぎを保って生きていける素晴らしい生き方ができると言います。

 


 

2019年4月14日

 題:「神の子の死」  聖書:ルカ福音書234449

 

 残酷な、むごたらしい、恐ろしい十字架の刑罰によって死んでいかれるイエスを見ていた人の中に、驚くべきであり、不思議なことですが、「この人は、本当に正しい人であった」と言って、神を賛美した人がいました。その人は異邦人の、ローマ軍の百人隊長でした。

 

 彼が神を賛美することができたのは、呪われるようにして、みじめで、無力なさまで死んでいかれるイエスの「父よ、私の霊をゆだねます」という言葉に驚き、感銘を受けたからかもしれません。

 

 これまでの生き方や働きが無駄になり、報われないのではないかという心配や神から見捨てられたのではないかという不安や恐れから解放されて、自分の思いをすべて捨てて、白紙委任するような気持ちで、安心して、すべてをゆだね切っている、イエスの神の計らいと配慮への信頼を見て、百人隊長は、イエスと共にいて、支えている、大いなる生ける神の臨在を実感できたからではないか。

 

 罪人として裁かれ、十字架のむごたらしい、残酷な刑を受けて、死んでいかれるイエスを見ていた群衆の中には、胸を打ちながら、悔い改めて、その場を去っていく人たちがいました。

 

彼らは、最初はイエスを神から遣わされた救い主として喜んで迎えたけれども、彼らの期待に応えない姿に、イエスは間違っていると思い、がっかりし、怒り、憎しみ、十字架につけることに賛成していましたが、十字架上のイエスの姿と言葉を見て、つまり、自分のことはすべて捨てて、ただ他者のために心砕き、他者の為に生きている姿に真の正しさがあることに気づかされて、間違っているのは自分たちであり、イエスを十字架につけたのは自分たちであるという罪に気づき、心から悔い改めたということかもしれません。

 

 彼らの中には、赦されている犯罪人を見て、赦されない人はいない、自分も赦されるという確信を得、安心した人もいるに違いない。

 


 

  2019年4月7日

      題:「十字架につけられたイエス」聖書:ルカ福音書232643

 

 主イエスが十字架につけられたのは、私たちの救いのためであるわけですが、その救いにはどんなことがあるのでしょぅか。

 

 一つは、慰められるという救いです。すなわち、神の子であり、尊い方であり、偉大な方である主イエスが、十字架につけられていく中で、非難され、バカにされ、侮辱されている姿を見て、私たちも人々から非難されたり、軽んじられたり、侮辱されることはそんなに特別な、致命的なことではないし、自分に価値がないと卑下する必要もないことが示され、また主イエスは自分の悲しみや苦しみを解ってくださると思えて、慰められるということです。

 

 二つ目は、十字架につけられ、苦しみ、死んでいき、何かをやりどけることに失敗したように見える主イエスの人生を通して、生きることで大事なことは、何か立派なことを成し遂げ、高い地位や名誉を得、金持ちになるという結果を得ることよりも、どんな思いで、どんな心構えで生きていくかであり、嘘をついたり、人をだましたり、人を犠牲にしたりせずに、うまくいかないことがあったとしても、不平不満を言わずに、感謝を忘れず、喜びに満たされ、望みをもって、愛に生きることが救いであることを教えています。

 

 三つ目は、あざ笑われ、軽蔑され、侮辱されても、落ち込んだり、絶望したりせずに、毅然とし、人を赦している主イエスの姿を通して、どんな苦難や試練があり、つらく、嘆き悲しむことがあっても、それらに負けずに、屈服しないで、堂々として生きることができるし、そのために人を赦し、困難なことも受け入れることができる力を与える神の赦しと神の愛に生きることが教えられています。

 

 主イエスが想像を絶するような、過酷で、みじめな、恐ろしい状態から解放され、愛に生き、毅然としてふるまうことができた力は、全能の、すべてを支配している生ける神が共にいるという確信です。

 


 

2019年3月31日

  題:「十字架への道に進む」 聖書:ルカ福音書192840

 

 主イエスは、神から遣わされた救い主であるという自覚をもって、ロバに乗ってやってくるというゼカリヤの預言に従うようにして、ロバに乗って、対立する宗教指導者たちが待ち受けているエルサレムの町に入っていかれます。

 

 この時、不思議な形でロバが備えられ、多くの人たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と大声で、期待して、歓喜の声で迎えられることの中で、主イエスは、ご自分を救い主として遣わした神は救い主として働くために必要なことはすべて備えてくださるという確信を得たに違いありません。

 

エルサレムに入ることは、十字架への道に進むことであり、そのことをしっかりと理解していた主イエスには、悲壮感や恐怖感は感じられずに、というよりも、楽観的であり、何とかなる、大丈夫だという思いが感じられるのはなぜか。

 

それは、主イエスが剛毅な精神力をもっていたからなのか、青年特有の怖さ知らずからなのか。そうではなくて、強くさせている原因は、神にすべてをゆだねられたから、神は必ず救いを実現するという使命が果たせるために必要なことはすべて備え、見守り、祝福してくださることにゆだねられることができたからと言えます。

 

 主イエスがエルサレムに入っていかれるときに、先に立って進んでいくという言葉があるのは、私たちが後からついてこれるように、私が先に立って行き、道を開く、だから私に従ってきなさい、十字架を背負ってついて来なさい。そうすれば必ず神は報いてくださる。祝福してくださる、という思いが主イエスにあるのかもしれません。

 

 私たちが背負う十字架には、さまざまなことがありますが、病や挫折そして死などの苦難は逃げずに受け止めることが、憎しみは赦すことが、十字架を背負って従うことになるにちがいありません。

 


2019年3月24日

:「鷲のように翼を張る」 聖書:イザヤ書402731

 

 若者も倦み疲れるし、勇士もつまずき倒れるから、ましてや疲れている者や勢いを失っている者は、さらに疲れや勢いのなさが増して、元気を出し、立ち上がっていこうという思いも失せ、あきらめ、絶望的になりやすい。

 

 この絶望的な思いになっていたのが、50年近くの長い間、バビロン捕囚を経験していたイスラエルの人たちでした。

 

 彼らは、もう神は私たちを救ってくれない、私たちは神に見放され、私たちのバビロン捕囚からの解放の願いは聞いてもらえないと断言していました。

 

 預言者イザヤは、あきらめずに、すべてを支配し、導いておられる大いなる力なる主に望みを置きなさい。そうすれば必ず大いなる力が与えられる。考えられないような、ありえないと思われるような、不可能と思われるような、これまで想像できないような、新しい力が与えられ、枯れた骨に聖霊が注がれて生き返るようにして、愚かで、弱弱しかった弟子たちに聖霊が注がれて、見違えるように生まれ変わり、まさに鷲のように翼を広げて、力強く、生き生きと、雄々しく、喜びに満たされて、生きることができると励まします。

 

 鷲のように力強く、疲れを知らず、生き生きとして、輝いて生きている人の中に、愛に生きている人がいます。自らも被災し、大変な困難を抱えているにも関わらず、困っている他者のために心を砕いて、愛に生きている人は本当に元気ハツラツとしています。このような人の存在は、愛が私たちを輝かせることを教えています。

 

 神の愛に望みを置き、神に赦され、とことん愛されてる経験によって、慰められ、新たな力が与えられ、できなかったことができるようになり、愛が生まれ、小さく、貧しく、狭い愛が大きく、豊かに、広くなり、生き生きと元気になれると言われています。

 


  2019年3月17日

:「創造と贖いの神」 聖書:イザヤ書401226

 

 イザヤは、イスラエルの人たちがバビロン捕囚から解放され、祖国のエルサレムに戻り、自由になれるという慰めがやってくるという神の約束の預言が必ず実現するのはなぜか、それは、約束される神は創造主であり、大いなる絶対的な力ですべてを支配し、この世の権力者を初めすべてが神の前にはむなしくうつろなものであり、何の力もないからであると預言しています。

 

 創造主なる神を信ずることとは、どういうことなのか。その一つは、神は、被造物である私たち共にいてくださるといことであり、決して私たちは孤立しているのではなく、羊飼いのように神によって見守られ、養われ、導かれていて、どんな時も、どんなに厳しい、絶望的な状況に置かれても、それで終わりではなく、ダメになることもなく、まだ救いの道が残されている。全き平安が備えられている、何とかなる、というあきらめない気持ちが生まれることです。

 

 もう一つは、すべては支配し、絶大な力を持っておられる神が共におられるということは、主イエスの「私は世に勝利している。だから勇気を持ちなさい」という言葉がある通り、さまざまな困難や恐怖に恐れず、不正や差別に対して、勇気をもって立ち向う力が与えられることです。

 

 50年という長い年月を捕囚というみじめな、屈辱の日々を送った人々の中には、神を畏れる信仰をなくし、生きているのなら、どんなに過酷な運命であっても、負けずに、より良く、豊かに、尊く生きていこうという知恵を失っている人もいたに違いありません。

 

 イザヤが神を創造者であると固く信じて、語っているのは、イザヤ自身が圧倒的な神に出会い、無にされた経験があったから。

 

 私たちがイザヤのような経験をするためには、新たに造り変えてくださる創造主なる神を固く信じ、つながっていくしかありません。

 


2019年3月10日

:「神の慰め」 聖書:イザヤ書40111

 

 預言者イザヤが、良い知らせを伝える者に向かって、「高い山に登り、力を振い、恐れずに、声をあげよ」という呼びかけをしているのは、恐れずに声をあげ、伝えられなければならないほどのすごく大事な「良い知らせである」という思いが込められています。

 

 その良い知らせに値打ちがあるのは、なぜかというと、それは、慰めを与えるから、その慰めを与える方が神であるからと言っています。

 

 神の慰めとなる良い知らせとは何かというと、それは、紀元前587年から続いていた「バビロン捕囚」から解放され、自由になり、50年ぶりにイスラエルの人たちが祖国のエルサレムに戻れるという知らせでした。

 

 イザヤは、50年という長い、過酷な、本当につらく、絶望的な日々を過ごしてきた。これでイスラエルの人たちが犯した罪は償われた。神は贖い、赦し、解放し、帰還させるという神の約束を告げます。

 

 イザヤはいつか廃れ、滅びる運命にあるこの世にある存在や力と違って、神は永遠に生きておられ、大いなる力と羊飼いのような愛をもって私たちを支え、支配しておられる方であるから、神の約束は必ず実現する。必ず慰められる。希望を持ちなさいと励まします。

 

 この知らせを聞いた、バビロンに捕囚されていた人たちの中には、あきらめや絶望的な思いを振り捨てて、信じて、本来いるべき場所で、本来の自分を取り戻して、生きることができると確信して、喜んで、慰められ、帰還した人も多くいたに違いありません。

 

 イザヤが、神からこの良い知らせを聞いて、確信をもって伝えられているのは、彼自身が生ける神に出会い、こなごなに打ち砕かれ、罪が贖われ、絶望な思いから解放され、新たにされ、再度預言者として立ち上がる経験をしていたからかもしれません。

 


 

2019年3月3日

  題:「キリストがいる教会」 聖書:エフェソ書11523

 

 獄中の身にありながら、エフェソ教会の人々のことを気にかけ、祈っているパウロの思いには切実なものがあった。

 

 パウロは、彼が開拓伝道で救いに導き、作り上げたエフェソ教会の人々の信仰や愛が素晴らしいことを感謝しつつも、もう一つ大事なことが欠けていることを心配して、足りないところが満たされるようにと祈っています。

 

 その欠けている大事なこととは何であったのかというと、それは、希望でした。つまり彼らは自信を無くし、迷い、絶望的な思いに満たされて、希望を失っていたのでした。それを知ったパウロが切実な思いでもって、希望が与えられるように祈っているのでした。

 

 エフェソの人たちは与えられている使命、神の計画の中で進められている救いのわざに参与せられ、遣わされている責任をしっかりと果たすことができない、うまくいかない、失敗するのではないかという恐れに捕らわれていた。

 

 パウロは、神の召しに希望があるのではないか。あなた方は神に招かれ、選ばれて、宣教の使命に関わっているのではないか。神はあなた方に豊かな輝かしい恵みを与えると約束されている。そこに希望かあるのではないか。神は絶大な力をもって働きかけてくださっているから、必ずその約束は実現される。そこに希望があるのではないかと訴えています。

 

 彼らは、あまりにも厳しい現実に直面させられているので、パウロの訴えを信じ、悟ることができないでいる。そのためにパウロは、聖霊によって、心の目が開かれて悟れるようにと祈っています。

 

 パウロが確信と熱意で祈ることができたのは、教会にはキリストがいるから。復活されて、絶大な神の力を持ち、愛のキリストが必ず働きかけ、悟ることができるようにするから、という信仰でした。

 


2019年2月24日

:「信仰の真髄」 聖書:ルカ福音書7110

 

 主イエスから「これほどの信仰を見たことがない」と感心された人が、聖書に通じ、長い信仰生活をしているユダヤ人の長老たちではなく、ちゃんとした信生活仰がなかったと思われる異邦人の百人隊長であったことに不思議さと驚きを感じ、自分のような者でも主イエスに関心される信仰に生きる可能性の希望を感じます。

 

 主イエスが百人隊長に感心した言動とはどんなことであったのかというと、それは、自分のことだけではなく、他者の為に親身になって心を砕き、行動するとりなしの生き方という信仰の真髄があったということです。

 

 もう一つは、神の恵みを受けるのにふさわしいからという思いで、癒しを求めるとりなしの働きをしたユダヤ人の長老たちと違って、百人隊長は、自分が神の恵みを求めることはふさわしくないが、そのようなふさわしくない者にも恵みを注いでくださるという謙虚な思いである信仰の真髄を主イエスは高く評価されたからです。

 

 もう一つは、主イエスの言葉には、神の権威があり、「清くなれ」と言われれば、「清くなる」、「起き上がれ」と言えば、「起き上がる」ということが実際に実現できる神の権威をもっておられるという信頼を百人隊長は持っていたからです。

 

 信仰生活がほとんどなかった思われる百人隊長がその信仰を褒められるということは、私たちに希望を与えるとともに、なんでこうなるのかと不思議にさせられます。

 

 教えられることは、百人隊長の信仰は、理性を超えていて、神が一方的に選び、恵み、聖霊の働きかけがあったからであり、そのために新しく変えられて、他者の為に生き、謙虚になり、イエスの権威を認めるという信仰の真髄に生きることができたからであり、与えられたものであるから、私たちにも希望があるということです。

 


 

2019年2月17日

  題:「待ち望む人の幸い」 聖書:イザヤ書301526

 

 幸いを与える様々なことがありますが、本日の箇所において教えていることは、待ち望む人が幸いであるということです。

 

 血液のガンである白血病になり、水泳競技から離れなければならなくなった池江璃花子さんが、「耐えられない試練はないし、乗り越えられない壁はない、また必ず水泳選手として戻ってくる」と言うのを聞いて、待ち望めることはどんなに幸いなことかと思います。

 

 預言者イザヤがここで、待ち望んで幸いとなるのは、主を待ち望むことによって、つまり、人間でもこの世の権力でもなく、そうではなく、主なる神を待ち望むことによってであると伝えています。

 

 主なる神を待ち望むことによって幸いとなるのはどうしてか、それは、まず主なる神は私たちに恵みを与えようとしている方であるから。つまり裁きではなく、呪いでもなく、悪いものでもなく、そうではなく、より良いものを、いのちを、安心を、生きていく勇気を与えようとしているから、だから幸いであるというのです。

 

 二つ目は、主なる神は、ご自分を信頼する私たちを期待し、待ち望み、実際に待ち望む私たちを憐れんで、つまり、私たちが待ち望んでいる気持ちや思いに寄り添って、ともに悲しみ、ともに苦しみながら、私たちが待ち望んでいることを叶えてあげようとして、さまざまな困難があっても、それに立ち向かい、立ち上がり、行動し、働きかけるという約束をしている方であるから、その約束を必ず実現できる神であるから、すべてを正義によって支配している神であるから、だから幸いであるというのです。

 

 このイザヤの慰めに満ちた言葉を聞いて、神の約束の言葉に従わずに、挫折し、絶望的な状況に置かれているイスラエルの人たちはどんなに癒され、励まされ、勇気づけられたことか、新たになって、神を待ち望む思いを強めることができたのではないか。

 


 

2019年2月10日

   題:「キリストが与える自由」 聖書:ガラテヤ書4215:1

 

 言論の自由や信教の自由などさまざまな自由が憲法などによって与えられていますが、心の自由はキリストによって与えられているから、奴隷のくびきに繋がらず、不安や恐れから解放されて、固く立って、心の自由をもって生きるように、と勧められています。

 

 心の自由の一つは、他人や事柄にとらわれて、不安になったり、恐れずに、それらから解放されて、ただ生きていることが楽しい、喜んで生きる、感謝しながら生きるという思いをもって、日々を過ごしていくことであると理解してよいと思います。

 

 心の自由はキリストが与えてくれるというメッセージには、私たち人間には、自分の心を支配してコントロールすることが難しいということが示されています。それは、パウロが善いことをしようと思うが実際にはできずに悪しいことをしてしまう自分を見て、嘆き、絶望しているように、です。

 

 キリストはどうして私たちに心の自由をあたえることができるのか。それは、私たちが神の恵みに生きることができるようにしてくださっているからです。つまり、楽しく、喜んで、感謝して生きることを難しくしている、能力や生きる環境などの違いや苦難よりも勝ち得て余りある恵み、違いや苦難などが全然気にならなくなるほどの、大きな楽しみと喜びそして感謝の思いを与える神の恵みがキリストによって実現しているからであると教えています。

 

 キリストが心の自由を与えている目的は何かというと、それは、ただ単に自由気ままに生きてよいということではなく、愛に生きるため、つまり人間は心の自由を得て、思いやりの心が芽生え、赦し、共に生きていく命が得られるから、愛に生きなさいと。

 

 心の自由に生きるために、私たちはただ神の恵みを素直になって、単純になって、謙虚になって受け入れ、信ずることです。

 


 

2019年2月3日

  題:「真ん中に出る勇気」 聖書:ルカ福音書66節~11

 

 手の萎えた人が主イエスの促しに従って、会堂の中で、人々の真ん中に出たことが示されています。憎しみと敵意を持ち、厳しい目で見ている律法学者たちがいるという恐れを感じる雰囲気の中で、また手が萎えた姿を見せることには恥ずかしさがあり、嫌に感じる状況を考えると、真ん中に出ることがどんなに難しいことであるか。

 

しかしこの人は、世の不正や矛盾に対して、抗議の声を上げている、何をも恐れない気概や勇気ある人々と同じようにふるまっていることに驚き、すごいと思います。

 

 この気概や勇気はどこから生まれたのか。それは、主イエスに背中を押されるようにして、つまり、主イエスの気概や勇気が乗り移って力を受け、愛ある主イエスに繋がっているという意識を感じ、支えられ、守られている確信から力を得て生まれたと言えます。

 

 主イエスは律法学者たちの反発や憎しみそして命を狙われる危険があることが分かっている中で、どうして手の萎えた人を真ん中に立たせようとしたのか。しかも、まだ手をいやす前に、手の萎えた状態の時に、勇気や気概が必要とされるふるまいを求められたのか。

 

 一つ言えることは、手の萎えたことが差別され、悲しみや苦しみをもたらす状況を憂い、それに抗議し、それは間違っていることを訴え、そして人間は見える事柄に弱さなどのさまざまな違いがあっても、それによって尊厳さが失われるものではないし、皆あるがままで神に愛され、受け入れられている、かけがえのない存在であるという救いを示し、見失われている救いを実現する思いからです。

 

 私たちが自分自身ではあるがままの自分を受け入れることができず、肯定できず、愛することができなくても、神に受け入れられ、肯定され、愛されている存在であるという救いをそのままを受け入れ、肯定し、愛する勇気に生きることが真ん中に出ることです。

 


 

2019年1月27日

  題:「歴史の主なる神」 聖書:イザヤ書121節~2

 

 人間の願いや欲望のために崇められている万の神々と異なって、聖書の神は、神の方から一方的に人間の前に現れて、ご自分がどんな神であるかを自ら教え、啓示していることが示されています。

 

 聖書の神はどんな神であり、どんな思いや考えを持っているかについて、また人間を救う計画を実現するために選んだのがイスラエルであることについて知らされているのが預言者です。

 

 神に出会い、圧倒され、御心に気付かされている預言者の一人がイザヤであり、そのイザヤが本日の箇所において、イスラエルを占領するバビロニアは、一次的には栄えるが、長く続かずに、いつか必ず滅び、一方、イスラエルは回復し、救われ、平和を取り戻す時が来ることを預言しています。

 

この預言を通して、この救いを実現される方こそ、生きて働いておられる生ける神であり、まさに歴史の主なる方として私たちを支配し、導いておられる方であることを教えています。

 

 歴史の主なる神は、イスラエルが見捨てて、他の神々に信頼するという罪を犯しても、救うために懲らしめたり、厳しくすることはあるが、忍耐して、赦して、ご自分のところに戻ってくることを待ち続ける愛をもって支配している方であることが示されています。

 

 愛をもって私たちを支配している歴史の主なる神は、私たちすべての人たちと共にいて、私たちを見捨てず、孤独にせずに、最後には喜び、安心、希望という良きものを与えると教えられています。

 

 神の救いにあずかるために必要なことは、信仰です。ただ信ずることによって、私たちを愛をもって支配し、どんな時にあっても共にいて、救いと祝福をもたらし、思い煩いから解放し、様々な試練に乗り越えられる力を与え、いつもわたしたちの祈りを聞いてくださるという確信が私たちに与えられます。

 


 

2019年1月13日

 題:「戒めを超えるもの」  聖書:ルカ福音書61節~5

 

 戒めは私たちの日常生活に必要不可欠であり、信仰生活においてもさまざまな取り決めがあり、それによって信仰生活が全うできることになります。その戒めの一つが安息日の規定であり、本日の箇所に於いて、安息日にしてはならない約束ごとを破っているのではないかという非難がファリサイ派の人たちからイエスの弟子たちに向けられています。

 

 主イエスは、ダビデの出来事を示しながら、弟子たちの行為は間違っていないと反論されて、戒めを超える愛に生きることを諭されています。

 

 その当時、人々の信仰を指導し、導き、律法に精通し、愛の戒めがどんなに大切であるかをよく知っていたはずのファリサイ派の人たちが、戒めを絶対化し、弟子たちが飢え乾き、苦しんでいることに寄り添うことができず、冷たく非難し、思いやりのない言動をしてしまったのはなぜか。

 

 その理由の一つが彼らのイエスへの妬みと憎しみです。つまり、主イエスが世に出られ、福音を解き、病いをいやすことを通して、神からの使いだという評判がでて、人々の注目や尊敬がイエスに向けられることによって、ファリサイ派の人たちが妬み、憎しみの思いが高まる中で、イエスの言動が許せなくなったからであると。

 

 彼らがねたんだり、憎んだりしたのは、彼らの信仰に問題があり、本当に神の愛と憐れみを信じる信仰に生きるならば、妬みや憎しみから解放され、自分の他人と比べられない尊厳さに気付き、真の自信を得られるはずなのに、その信仰が欠けていると言えます。

 

 主イエスは戒めを超える愛に生きること、すなわち自分がしてもらいたいと思うことを、まず自分が他の人にしてあげるという愛に生きることが大切であることを示されています。

 


 

2019年1月6日

   題:「来る年を新たな思いで」聖書:ルカ福音書53339

 

 新年を迎えて、新たな思いへの意識が生まれる中で、信仰者としての思いを新たにすることの一つが、信ずることがどんなに大切であるかという思いや、信仰によって与えられる恵みがどんなにすばらしいかという思い、そして信ずることには力があるのだという思いを新たにすることではないか。

 

 このことは、主イエスが、私による救いの実現によって、新しい時が到来した今は、断食することよりも、婚礼に招かれた客のように、喜ぶ時であり、ぶとう酒が新しくなったのだから、入れる革袋を新しくするべきであるという言葉があるとおり、神の救いを受けるためには、何らかのふるまいや条件が必要であるという古い革袋は捨てて、神から無条件の救いの招きを素直になって、単純になって、ただ信じて、受け入れ、従っていくだけでよいという新しい革袋が必要だという約束によっても示されています。

 

 信ずることが大切であるのは、行いがなくても、罪深いものであっても、皆信ずることだけで、神の祝福を受け、主イエスにつながることができ、主イエスの命と人格、そして尊さを身に受け、主イエスのように生きることができるようになるということです。

 

 主イエスが自信に満ち、確信を持ち、堂々と、輝いて生きておられ、他者のために生きられ、人を変え、社会をよりよく変えられる尊い命と大いなる力をもっておられましたが、主イエスにつながり、主イエスの命と力を授けられて、自信のないものが変えられ、自信をもって生きていくこができ、自分のことしか考えられない自己中心な者が変えられ、他者のために生きられ、社会のさまざまな矛盾や不正を無くし、皆が安心して、希望を持って生きていける、より良い社会に変えていく働きに関わっていく力を得る恵みが、たた信ずることによって与えられるという思いを新たにすることです。

 


 

  2018年12月30日 

    説教題:「キリストが形づけられる」聖書:ガラテヤ書4820

 

 

 一年前であれ、一ケ月前であれ、過ぎた日を振り返る時、今の自分はどう変わっているのであろうか、つまり、成長し、進化しているのだろうか、それとも、なんの変化もないままなのだろうか、それとも以前に戻り、低下したり、悪くなったり、堕落してはいないであろうか、などのことが気になり、心配することがあります。

 

 パウロが、「あなたがたのことが心配です」と語っているはどうしてかというと、救われる前に逆戻りし、心が燃え、生き生きとして、喜びと感謝に溢れ、豊かな愛に生きていた信仰の姿が消えている人たちの存在があったからでした。

 

 心配されているあなた方というのは、パウロ達の開拓伝道によって、救われ、信仰に生きている、異邦人やユダヤ教から改宗したガラテヤ教会の人たちでした。

 

異邦人なる彼らは、目に見える偶像なる神々への信仰を捨て、迷信や風習そして祟りなどから解放されて、心からの喜びや安らぎ、そして希望を持ち、自由な心をもって生き生きて生きていた人々であり、ユダヤ教から改宗した人たちは、律法主義から解放されて、ただ信ずるだけで義とされるという福音によって救われて、自分らしく生きる、キリストが形づくられる信仰に生きていたのでした。

 

 そのような彼らが、逆戻りして、目に見える偶像なる神々の奴隷となり、神を信頼するよりも自分に信頼する信仰に落ち、キリストの形が崩れ、ゆがんだものになっていたということでしょうか。

 

 目に見える力に頼るか、それとも目に見えない力に頼るかどうか、また神にすべてをゆだねて信頼するか、それとも自分の力に頼るかどうかという信仰の戦いに負けている姿を見たパウロは、彼らへの愛を表す中で、再びキリストが形づくられることを願い、信仰の武具である、聖書を読むこと、祈ることを勧めているように思います。

 


 

 2018年12月23日

    説教題:「救い主の誕生」 聖書:マタイ福音書118節~25

 

 主イエスの誕生をお祝いするクリスマスが私たちに与える喜びが、普通ではなく、特別なものであり、普通では喜べない厳しい只中であるにも関わらず、喜べる大きな喜びである根拠は、「神が私たちと共にいること」が明白であり、確かであり、真実であることが示されたということにあります。

 

 「神が私たちと共におられる」ことによって生まれている大きな喜びの一つが、わたしたちは見えるこの世だけで生きているのではなく、見えない世界とのかかわりで生きており、見えない存在である大いなる神の力に支配されており、この世は何か不気味な力や運命に支配されているのではなく、愛と慈しみに富み、わたしたちが安心して、喜んで、希望をもって生きていけるように働いておられる神に守られて、支えられ、導かれていることが真理であり、確かなことであることが預言通りにお生まれになった救い主イエスによって示されたからです。

 

 二つ目は、わたしたちと共におられる生ける神は、不可能を可能にでき、安心できないと思われる只中で安心して生きられるように、喜べないと思われる只中で、喜べるようにし、望みが持てないと思われる只中で望みが持てるようにしてくださる、憐れみに富み、すべてを赦してくださる方であることが、死んだけれども三日目に復活したイエスによって明らかにされたからです。

 

三つ目はすべてを支配し、愛をもって導かれ、導いてくださる大いなる生ける神はすべての人と共にいてくださるということ、つまり、わたしたちは皆、誰一人もれなく、誰一人除外されることなく、どんなに罪深くあっても関係なく、すべての人と共にいてくださることが、みすぼらしい、貧しい、薄汚い飼い葉桶でお生まれになった救い主イエスによって真実であることが示されたからです。

 


 

 2018年12月9日

  題:「平和の王の到来」  聖書:イザヤ書11110

 

 待降節に於いて求められる心備えの一つが、救い主のイエスをどんな方として理解し、お迎えするのかというのがあります。その答えの一つが、「イエス・キリストは私たちの平和である」というパウロの言葉のように、平和を実現する方であるという理解です。

 

 平和の王としてやってこられたという信仰は、聖書にしるされている預言がイエスに於いて成就したという理解から来ていますし、その預言の一つが本日のイザヤ書11章であります。

 

この預言には、「狼が子羊と共に宿り、豹が子山羊と共に伏す。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」という表現で表されているような、本当に皆が穏やかで、安心して、自由に過ごすことができるという平和が実現することが示されています。

 

 この平和を実現するメシアは、ダビデの父であるエッサイの家系から生まれ、主の霊を注がれ、知識と勇気と敬虔さを身につけ、正義と真実をもってふるまい、弱い立場にある人に寄り添い、見守り、守っていく方であることが示されています。

 

 パウロが証しているように、キリストによって、敵意が取り除かれ、赦しに生き、共に生きて平和に生きる新しい人が世界中に出ているが、しかし、一方では、憎しみや対立が絶えず、争いや戦争やが国と国、人と人の間などのいたるところで起き、傷つき、悲しみ、命を奪われ、絶望的な状況にある人達が数多くいるし、弱い立場にある人達は特に悲惨さを経験しています。

 

 絶望的な中で、希望となることは、キリストの平和が多くの人に於いて実現しているし、私たちを真に支配し導いている存在は預言を成就する全能の力を持ち、愛に富み、いつも私たちに関心をもって見守り、支えている、生ける神であり、その神が時が来れば、必ず平和を実現するメシアを遣わすと約束していることです。

 


 

 2018年12月2日

    題:「主の恵への心備え」  聖書:ルカ福音書3120

 

 毎日であれ、一年に一回であり、自分の歩みを振り返り、反省し、修正していくことは、意義があります。つまり、間違ったところがあれば、正し、曲がったところがあれば、まっすぐにし、でこぼこがあれば、平らにして変えて、修正していくことは本当に私たちの人生にとって必要不可欠であり、豊かな人生になれるかどうかの決め手になると言っても過言ではありません。

 

 信仰が本物になれるかどうかの決め手になる振り返りが悔い改めることです。単なる懺悔ではなく、これからは立派な正しい人間になれるように頑張って生きていきますと反省することでもなく、そうではなく、真の悔い改めができるかどうかが試されます。

 

私たちが自分の生き方がどのように向いているかを点検し、本心に立ち返り、百八十度転換して、神の方に向いているかどうか、傲慢ではなく、謙虚になっているか、曲がらずに、ひがんだり卑下したりせず、まっすぐに、謙虚になり、神の愛にすべてをかけて生きていこうという悔い改めの思いがあるかどうかが必要です。

 

 この悔い改めを洗礼者ヨハネは、真に悔い改めさせ、新生させる大いなる力をもっておられる、聖霊に満たされている救い主イエスが登場してくる前に、荒野で、「その人を迎える心備えをしなさい。」と人々に厳しく激しく叫んでいます。

 

 ヨハネの叫びが激しく、厳しかった理由の一つは、悔い改める必要のない者は誰一人いない。自分は正しい人間であり、悔い改めを必要しないと思っている人が自分の愚かさに気付き、真に悔い改めることができるようにするためであり、悔い改めて、神の向きを変え、イスエを救い主として信ずることがあってこそ祝福される人になる。だからどうしても悔い改めが必要だし、その時は今であることを解ってほしいという思いやりと愛があるからかもしれません。

 


 

 2018年11月4日

     題:「生涯の日を数える知恵」   聖書:詩編90

 

 この詩人は、限りある私たちの人生を、「朝が来れば、花を咲かせ、夕べにはしおれ、枯れていきます。人生はため息のようであり、瞬く間に時は過ぎ、飛び去ります」と見事な表現でもって描き切っています。

 

 いつか必ず死がやってくる現実がはかなさや虚しさを感じさせる中、死を見ないで、ただ生きるだけを考えていこうと思う人や、死が来るのは運命だから、仕方がないとあきらめて過ごす人もいる中で、この詩人は死を見つめ、恐れずに、前向きになり、積極的になって、喜びと希望を抱き、悔いのないように生ようとしています。

 

 詩人は、このような素晴らしい生き方はどうして生まれているのか、それは、彼が生涯の日々を正しく数える知恵をもっていたからかもしれません。

 

その知恵とは何か、それは、永遠なる神とのかかわりの中で生き、肉体が滅んでも、霊なる体は、死んでも消えるのでもなく、何か恐ろしいところに落ちていくのでもなく、そうではなくて、そのままで受け入れられ、赦され、永遠の命を与えてくださる、憐れみと慈しみに富む永遠なる神のところに帰り、豊かな慰めと平安を得ることができると信じられる知恵でした。

 

 この詩人が永遠なる神のところに帰ることができ、永遠の命に生かされる恵みを自分も得られるという確信が生まれたのは、死を見つめることを通して、そこに神の裁きと愛があることに気付いたからでした。

 

この詩人は死は罪が罰せられていることであり、同時に愛されていることでもあることに気付き、生と死はすべて神の御手にあることを知らされ、罪を悔い改め、神の憐れみによって生かされて生きていることに気付く謙虚な心を持つ知恵があつたからでした。

 


 

  2018年10月21日

    題:「メシア預言」     聖書:イザヤ書8:239:6

 

 ユダヤ教から分かれ、生まれたキリスト教が、神から出てきている宗教であるという正当性や真実さの確かな根拠になり、ユダヤ教からの疑い、反発、攻撃に耐えて、乗り越えて、弟子たちが「イエスこそ救い主である」という宣教に希望と勇気を持ち、命がけで励んでいくことができた根拠と力の一つは、メシア預言がイエスによって成就したという確信であったと言えます。

 

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」というメシア預言は、紀元前8世紀頃、南イスラエルのユダの国がアツシリアの国の脅威に脅かされ、人々が闇の中に置かれていた時、イザヤが預言したものであり、ユダの民に光をもたらし、救って下さる神になお望みをかけるように呼びかけられたものでした。

 

 イザヤのメシア預言は、彼の願いや理想からのものではなく、神はユダの民がくるしみ、悲しみ、人間としての尊厳を失っていることに無関心ではおれないし、ほおっても置けないと思い、強い関心を持ち、何とかしてあげたい、くるしみや絶望から解放して、救い、幸いを与えたいという熱き想いを持っておられる神の言葉でした。

 

 救い主としての特別な使命をもって人々に「神の国は近づいた。くいあらためよ」と宣べ伝え、カウセラー的な思いをもって弱い立場に置かれている人に寄り添い、敵意という中垣を取り除き、平和を実現されているイエスも、聖霊をとおして、さまざまな預言はご自分において実現しているという確証があたえられて、ご自分の救い主としての正当性や真実さを得ておられたのではないか。

 

 神の熱き想いの中で生まれているメシア預言によって、自然破壊や戦争の危機などによって、覆っている今日の闇の中にあっても、強い関心を持っておられる神は、必ず私たちの救いのために救い主を遣わされると私たちは確信でき、なお望みに生きられます。

 


 

  2018年10月14日

   題:「なお神を待ち望む」    聖書:イザヤ書8:523

 

 人生において価値があり、尊いのは、成功することであり、それが人生の勝利者になることであるという考えがあります。確かに失敗することは恥ずかしく、みじめなことですが、一方、競争に勝ち、一番になり、いろんな分野で頂上に上り、指導者になり、権力を握り、成功することに価値があり、尊いことであり、人生の勝利者であるという考えがあります。

 

 さまざまな分野で成功を収めている人たちのふがいなさや身勝手さそして醜さを見ると、成功することがはたして人生の勝利者であるといえるのか、言えないのではないか、真の勝利者はほかにあるのではないかと気づかされることがあります。

 

 聖書は、勝利者とは望みに生きることである。つまり、さまざまなことで失敗し、困難を抱え、絶望的な状況におかれても、それに負けずに、あきらめずに、望みに生きることこそが真の勝利者であると教えているように思います。

 

預言者イザヤが、ほかの国に攻められる危機にあつたユダの国の王アハズに、アツシリヤの国に援助を頼まず、アッシリヤの神々に拝まずに、ただヤーウエなる神に信頼すれば、守られるからと預言しても、その預言が失敗するというみじめな結果になり、預言者としての自信をなくすような絶望的な危機に遭遇します。

 

しかし、イザヤは絶望的な状況におかれても、あきらめずに、それでもなお、望みに生きています。そこにはみじめな敗北者の姿はなく、毅然としていて、晴かな表情をしている、真に勝利している姿が見えてきます。

 イザヤが望みに生きることができたのは、すべてを支配している、真に恐れるべき方であり、最後は救いと命そして平安などのよきものを与える生ける神が自分と共にいる確信があったからでした。


 

 2018年10月7日

   題:「約束による相続人」聖書:ガラテヤ書3:2129

 

 神の相続は約束によってなされる。つまり、神が一方的に、自由に、主体的になり、相続を受ける私たち人間の側は何の要求もできずに、ただハイ、わかりましたと言って受けとるという約束の形で、神が与える豊かな恵みと祝福の相続は実現していきます。

 

 神の約束はどんな形で実現するのかというと、それは信仰による、キリストを信ずる信仰によるといわれています。なぜ信仰によるのか、それは、行いによっては神に義とされず、相続を受けるのにふさわしくないからであり、神の相続を受けるのにふさわしいものになる義となるためには、信ずることが必要であるからです。

 

 ただ信ずることによって、神の相続人になれる。つまり、神の子、になり、キリストを着るという神の豊かな財産、恵み、祝福を受けられるし、しかも得られる財産が想像を絶する豊かで、偉大なものであるから、なんと驚くべきことであり、喜ばしいことであり、幸いであることか思います。まさにたかが信仰ですが、されど信仰だということかもしれません。

 

 神の子になり、キリストを着るという新しい人間に創造されることは、具体的にどんな存在になるのか、それは、内村鑑三が「後世への最大遺物」という書物で表しているところの、高尚な生涯を生きる人であり、つまりこの世は不気味な恐ろしい力ではなく、生ける神の愛の力に支配されていると信じ、希望と喜びを忘れず、自分の尊厳さをしっかりと意識して生きる人になれるということです。

 

 信仰の父アブラハムのように素直に、単純に、幼子のようになり、自分を捨てて信ずる信仰に生きることが難しいのは、自分の悪を認めて謝る心が持てず、罪を認めても、なお自分の力で正しい人間になろうと思い、他者の犠牲の上で生きることができず、赦しを必要とする者であると認める心がないからかもしれません。

 


 

  2018年9月30日

   題:「益なくも信ずるヨブ」    聖書:ヨブ記1:122

 

 神を畏れる、ヨブの無垢な正しい信仰が鏡となり、私たちの信仰のふがいなさや貧しさがはっきりと気づかされるところがあります。

 

 ヨブの素晴らしい信仰にいちゃもんをつけたくなる人もいるのかもしれません。つまり、素晴らしい信仰を疑い、ヨブの信仰はただで、益もなく、損得ぬきで、報酬を念頭に置かないで信じているのだろうか、そうではないのではないか、何かの益があるから、得するから信じているのではないかと疑う人もいるし、そのような人がサタンとして登場しています。

 

 サタンは神に、ヨブは何か災いを被るなら、神を呪い、神から離れていくと思うから、厳しい試練を与えてみたらどうかと聞きます。

 

 家畜などの財産や子供の命が奪われる悲惨な状態に置かれた時、ヨブは変わらず、「主が与え、主は奪う」と言って、神をほめたたえ、罪を犯すことはなく、自分自身も病に罹り、妻からも「神を呪い、死んだほうがよい」と言われるような、大変なひどい状態になっても、「神から幸いをいただいたのだから、不幸もいただこう」と言って、神を呪うことはしないで、無垢な正しい信仰を守っています。

 

 ヨブの素晴らしい信仰は私たちにとって鏡であると共に、憧れになり、目標になり、この信仰はどうして生まれるのかという課題が見えてきて、その答えが、友人たちとの対話を通して示されていると考えることができます。

 

 答えの一つは、悪いことをしたから罰せられるのは当然だと思ってあきらめることではないこと、二つ目は神は愛する者に試練を与えると思って、忍耐することでもないこと、三つ目は偉大な神によって私たちは支配されていることを理解して納得することでもないことであり、そうではなくて、ヨブが生ける神に出会い、圧倒され、身をもって生ける神を畏れることを経験したからでした。

 


 

 2018年9月23日   題:「神からの期待」聖書:イザヤ書5:17

 

 私たちは、誰かに期待され、誰かを期待するという中で、生きていて、期待に応えることができたり、できなかったりして、喜んだり悲しんだり、がっかりしたり失望したり、怒ったりほめたたえたりしています。

 

 本日の箇所は神からの期待に応えられなかったイスラエルが神から厳しい扱いを受けることが語られています。つまり、良いブドウを実らせることを期待される中で、神に愛されたイスラエルが期待外れとなり、神から厳しい扱い受けることが記されています。

 

 イスラエルが厳しく扱われたことに神の心配と憐れみとして受け止められて、よいブドウを実らせていかなければならないという悔い改めができることができるかどうかが問われます。

 

 イスラエルが神の期待に応えられなかった具体的なことは何であったのかというと、それは、公平さと正義でありました。

 

神が期待する公平さとは、見えるさまざまな能力などの違いによって尊さが決められるのではなく、皆一人一人かけがえのないものとして扱われることであるのに、イスラエルの人々はいろんな違いを軽蔑や差別をすることとして受け止める間違いがあつたからです。

 

神が期待する正義とは、力ではなく愛であり、支配し、仕えられるひとではなく仕えることであり、何かすごいことができることではなく心の豊かさであるのに、力を求め、支配することを求め、行いによって正しさを求めて、人を抑圧し、威張る生き方するという間違いがあったからです。

 

 神が期待する中で最大なことは、神に期待することであると言えます。つまり、すべてを支配し、導き、幸いと思えるのに必要なことはすべて与えてくださる全能の生ける神を信じ、み言葉に学び、賛美し、救いを待ち望み、救ってくださいと祈ることです。

 


 

 2018年9月16日

   題:「審判と栄光」聖書:イザヤ書3:116 4:26

 

 イスラエルに対する審判と栄光をイザヤが預言したのは、名君ウジヤ王が支配していた紀元前8世紀頃、イスラエルが繁栄している時でした。

 

預言者イザヤはイスラエルが繁栄していた時、将来必ず起きるという確信を抱いて、国が混乱し、崩壊していくことを語り、それを神の裁きとしてどうして語ることができたのか。

 

それは、イスラエルの人たちがさまざまに恵まれていることに神の憐れみを忘れ、恵まれていることを当然のこととして受け止めることによって、傲慢になり、共に生きることができなくなり、御心である、弱い立場にある人を大事にすることもなくなり、社会が混乱し、崩壊して行くことが必然であることを予知できたからでした。

 

イザヤが、イスラエルが裁かれ、指導者の不在などが起きて、国が崩壊することを確信をもって預言できたのは、神を畏れず、弱い立場にある人を大事にするという御心を行うことをしない罪を神は見逃さずに、裁かれると確信していたからでした。

 

イザヤが人から憎まれる神の審判を語ることができたのは、その裁きに救い、清め、よりよくしていきたいという神の憐れみと愛を見出すことができたからであり、そのために悔い改めを求めようとしたからでした。

 

 神を神としてあがめ、すべてを支配し導き、すべての良きものを与える全能の神として信じ、自分は神の憐れみがなければ生きていくことができない弱く、罪深い人間でることを認め、悔い改めるならば、神の裁きから逃れられ、それだけではなく、身を低くする謙遜さにこそ癒しをもたらす神の言葉が生き生きと働き、また神の業を行うために選ばれ、用いられ、そのために必要なたまものが与えられるという祝福が得られる。だから悔い改めなさいと勧めています。

 


 

2018年9月9日

 題:「キリストの死を無駄にしない」     聖書:ガラテヤ書2:153:21

 

 パウロの「神の恵みを無にしない。キリストの死を無意味にしない」という力強く、確信を持つ言葉にどんな思いが込められているのでしょぅか。それは、キリストの死にこそ救いがあり、生きる力があり、平安があり、希望があり、豊かさがあるという思いが込められ、素晴らしい新しい光景が見えてきた驚きを語っています。

 

 一つは、罪人がただ信ずることによって義とされ、神からみすてられることなく、罰せられることなく、神の祝福を得るという驚くべき、とてつもなく大きな恵みが得られる根拠がキリストの死であるから、パウロはキリストの死を無駄にしないときっぱりと言っています

 

 二つ目は、聖なる方であり、尊いかたであり、義なる方であるキリストが俗なる、卑しい、罪深い自分に宿り、生きて働くことによって、自分が変えられ、キリストのかおりや輝き、豊かさの中で生きることができ、自分から自由になり、キリストの愛と憐れみの支配の中で生きることができるという大いなる恵みの根拠はキリストの死にあるから、キリストの死を無駄にしてはならないと。

 

 三つ目はどんな人間でも自分を愛し、自分のために死んでくださっていると確信できるという豊かな恵みの根拠がキリストの死であるから、キリストの死は無駄にできないとはっきりと語ります。

 

 パウロが「キリストの死を無駄にしてはならない」と指摘している相手は、信ずることだけでは義とされない、行いがないと救われない、と思い、ユダヤ人も異邦人の区別もなく、汚れたものは何一つない、皆清くされているという救いに固く立てず、また以前として古いままの生き方から解放されずに、思い煩い、自分に捕らわれて、悲しげに、望みが持てずに生き、自分のためにも命を犠牲にしてくださっていることを信ずることができない人です。

 


 

2018年9月2日

:「弟子となった漁師たち」聖書:ルカ福音書5111

 

 主イエスが最初に弟子として招いたのは、漁師たちでした。なぜ漁師だったのか、不思議な気がします。

 

学問もなく、教養もあると思えない、その当時、身分・地位も低く、尊敬の対象にもなれず、というより軽んじられていた人たちであった漁師たちをイエスはなぜ選んだのかと驚きます。

 

 考えられる理由は、選びは一方的なものであり、恵みによるものであり、人間には何の条件もないということであり、もっと言えば自信や誇りは不要であり、逆に自分には何もなく、弱さや愚かさに気づくことが必要であるということかもしれません。

 

 もう一つ不思議な事は、弟子たちが自分の親や仕事そして自分の夢などをすべて捨てて従っていったということです。「従ってきなさい。人間をとる漁師になりなさい」というイエスの呼びかけに、よくもすべてを捨てて従っていくことができたことに驚きます。

 

すべてを捨てられたのは、弟子たちが心配や恐れを克服し、乗り越えられるところの安心できること、勇気がもてること、希望が持てたということがあったに違いありません。

 

 イエスは弟子たちにどのようにして、安心、勇気、希望をもたらすことができたのか、弟子たちはどのようにしてそれらを身に着けることができたのか。それは、イエスの大いなる力、イエスを通して大量の魚が捕れる大いなる力を弟子たちに示されたからでした。

 

 弟子たちは大いなる力を発揮されたイエスを見て、イエスには神が共におられるということを感じ、圧倒され、自分の罪深さ、無力に気づかされる中、イエスの大きな愛に生かされ支えられることに気づき、この人に従っていっても、大丈夫だ、自分のような無力な者でも弟子になれるし、大きな恵みも得られるという確信が生まれ、安心、希望、勇気が生まれ、従っていく力が与えられたのでした。

 


 

2018年8月26日

:「主なる神を試さない」聖書:ルカ福音書4113

 

 三回目の誘惑は神の言葉によって神から引き離そうという魂胆でした。ある時、イエスは、神殿の屋根の橋に立たされて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」という誘いを受けます。

 

 この誘いは、神の子であるなら、飛び降りても死なないように守ってくださるはずであるから、飛び降りても大丈夫だとう思いが込められていて、神に信頼せずに、奇跡を行わせることです。つまり、何の意味もなく、必要のないことでもあり、何の役にも立たないことをただ神の支えと愛を確かめたい、そのしるしを見たいという無謀な、身勝手な思いで、ただ神を利用するだけの、頼ることとは正反対の、不信仰の何物でもないことである。

 

 この誘いが、「神の子であるあなたを、必ず守ってあげる」という神の言葉を使って正当化する、強烈なものになります。

 

イエスは、この誘いを神に背かせるものであると見抜いて、神を試してはならない、神にすべてをゆだねなさいと諭されます。

 

 イエスは、この誘いは、神の言葉を曲げて使っているし、神の言葉の恵みの力は、実際にさまざまな苦難のただ中で悲しみ、苦しみ、絶望している時に、発揮され、慰め、癒し、生きる勇気を与える救いをもたらすものであることを教えています。

 

 神を試すことをするのは、生きる根拠がわからず、自分の尊厳さや生きる意味を見出せない、生かされて生きている存在であり、必要とされ、何らかの役目を果たすために生きているということが見えていない、神の恵みと愛が解らない状態にあることだと言えます。

 

 イエスは、皆、神の恵みと愛のなかで守られているし、いろいろと配慮されているから、それを信じてゆだねなさい。見えていない神の支えを見えるまで探し求めなさい。必ず見つかるはずだから、信じて、試さないで、ゆだねて、探し求めなさい、と呼びかけます。

 


 

 2018年8月19日

  題:「主なる神のみを拝む」聖書:ルカ福音書4113

 

 一回目の試みは生きる根拠に関することでありましたが、二回目は本能に関することで、私たち人間が一番心にかけ、魅力を感じ、心を動かされ、心揺さぶられ、強烈な誘惑になるところです。

 

 本能とは、目立ちたがりたいという願いで、一番になりたい、誰よりも優秀でありたい、高い地位を得て、人を支配し、先頭に立って人に命令し、人に仕えられたいという欲求、最大の欲求です。

 

 悪魔はイエスに権力と繁栄を見せ、これを与えようと誘い、神から引き離そうとします。イエスは悪魔の魂胆を見抜いて拒否します。

 

 イエスは、権威と繁栄を求めることは、神に背を向けることになるし、他者を引きずり落とそうとしたりする心の醜さや、他者を憎んだり、軽蔑したりする心の貧しさが出て、自分や他人に捕らわれる不自由さが生まれ、愛や自由そして平安が得られなくなることを知っておられたので、悪魔の誘いに負けることはありませんでした。

 

 イエスが拒否できたのは、神に仕え、拝む生活を通して、愛と自由そして平安は豊かに与えられていたからでした。

 

 イエスは、弟子たちが、権威や高い地位を得て、人に仕えられるような偉大さを求めていることに気づかれて、偉大さを求める本能自体は悪くないし、必要なことであるが、大事なことは、偉大になりたい本能を仕えることを通して実現しなさいと言われます

 

 イエスは、学歴や資格などの権威や繁栄はなかったが、まさに仕えることを通して、神に仕え、人間に仕えることをによって、誰よりも多くの人々に感動と感化と与えて、誉れを受けておられます。

 

 喜んで人に仕えるためには自分を低くし、謙虚になり、自分をむなしくし、自分を捨てる人格が必要になり、こうなることは本当に難しいが、神に仕えることによって、自分を捨てられる人格が造られて他者に仕えることができる。だから神だけを拝みなさいと。

 


 

2018年8月12日

 題:「パンのみでは生きられない」聖書:ルカ福音書4113

 

「人はパンのみでは生きられない」という言葉は、一般的には、生きるためには物質的なことだけではなくて、心や精神も大切なのだという理解がされていますが、主イエスはどんな思いや考えでこの言葉を引用されているのでしょうか。

 

 主イエスがこの言葉を引用されたのは、荒野において悪魔の誘惑を受けている時でした。

 

悪魔とは、さまざまな苦難の中で、神を呪ったり、神に不信を抱いたり、神を嫌っている人を見るとすごく喜ぶ存在で、いつも神から引き離そうとしていろんなたくらみをしています。

 

主イエスが悪魔の誘惑を受けられたのは、40日間荒野で過ごし、空腹という苦難の中にあった時でした。

 

 悪魔は主イエスに「「神の子なら、その石にパンになるように命じたらどうだ」と呼びかけます。主イエスはこの呼びかけに、神に頼らずに、自分の力で奇跡を起こしたらどうだと言って、神から引き離そうとする悪魔の魂胆を見抜かれて、神だけを拝み、神にすべてをゆだねるという神への無限の信頼を示されて、主イエスが神の子、救い主であることの証明をされます。

 

 主イエスが、悪魔の誘惑に対して、神の言葉でもって対応しておられるのは、神から引き離そうとする試練に敗北しないためには、神の言葉によって養われていなければならないということが示されています。

 

 なぜ神の言葉に養われていなければならないのか、それは神の言葉は人間の生きる根拠であり、小さな無力な愚かな私たちを赦し、愛し、見守り、顧みてくださる慈しみの教えであり、真にいきがいを見出し、他では得られない大いなる喜びを得ることができる知恵と力が得られる教えであるからです。

 


 

2018年8月5日

:「平和と命の主」聖書:マタイ福音書59

 

 平和や命の尊さそして戦争の悲惨さをより深く、より強く思わさせる8月に入り、主イエスの「平和を実現するものは幸いである」という言葉が私たちの心に強く迫ってきます。

 

 主イエスは幸いなのは単に平和を好み、喜ぶ者ではなく、平和を実現する者が幸いであると呼びかけています。

 

 幸いなのは、平和は有難く、人間が人間らしく、安心して、希望や夢をもって、お互いが共に協力して生きられる必要不可欠な尊いものであり、また神が人類を救う神の国を実現する働きに参与し、神の労働者になるという光栄あるものであるからと言っています。

 

 平和を実現する働き手になる人は、どんな人なのかというと、それは、相手を大切に思う心、赦し愛する心、相手の良さを見ることに長ける心、さまざまな違いにある対立や憎しみそして軽蔑を乗り越えて、皆一人の人間である、かけがえなさを持った人間であると理解する心などを持つ人であると言える。

 

 自己中心的であり、愛の心の貧しい私たちであっても、敵意を取り除き、差別や偏見を受けている弱い立場に置かれている人に寄り添い、共に生き、敵を愛する心と命にあふれる、平和と命の主であるキリストを信じることによって、キリストの命と力を身につけられて、その働きに参与できる。だから幸いであると言われます。

 

 平和を実現することがどんなに困難であるか、それは戦争の絶えない歴史やこれまで戦争に加担してきている教会の姿を見ればわかるし、戦争が起きる危機がある今、平和の実現に希望が持てない。

 

 時が来れば、歴史の主であり、平和と命の主である生ける神が、国が国に向かって剣を上げずに、戦うことをしない平和な世界を実現する預言があり、世の中には実際にキリストによる一致や生ける神の平和の働きがみられる。ここに希望があり、幸いがある。

 


 

 2018年7月29日 

   題:「権威と力の主」 聖書:ルカ福音書431節~44

 

 主イエスは、神の子として、救い主として、神の国の福音を宣べ伝える特別な使命を自覚しながら、人々に神の教えを語り、さまざまな業を行いました。

 

 人々は、主イエスの言葉に非常に驚きました。つまり、その言葉に感動し、圧倒され、心が強く動かされるものを感じ、これまで経験したことのない、律法学者たちにも見られない、神が共におられて働いている権威と力を感じたのでした。

 

 権威と力はどんな形で表されているのかというと、それは、汚れた悪霊に取りつかれた人に向かって、「この人から出ていけ」という言葉をかけて、その人を苦しめ、恐れを抱かせ、絶望させていた恐ろしい悪霊を追い出し、解放し、自由にし、平安と希望を取り戻させて、人間らしく自分らしく生きていくことができる命を与えるにことによってです。

 

 もう一つは、病にかかり、いろいろと世話を受け、仕えられ、助けられていた人が癒されて、癒される喜びに浸っているだけではなく、そこから立ち上がって、今度は人を助け、人に仕え、人を助ける人に新しく作り変えさせることができることによってです。

 

 神の権威と力を与えられていた主イエスは神の国が近づいていると宣べ伝えています。つまり、この世は悪魔のような不気味な力に支配されているのではなく、支配しているのは生ける神である、愛と平和をもたらす、真の勝利者である、生ける全能の神に支配されている。だから心配になり、恐たり、絶望することはない。安心して、希望をもつて生きなさいと呼びかけています。

 

絶えず神と対話し、祈るイエスの姿は、神を信じて祈ること。そうすれば、神が共におられて、新しい人間に作り変えられていく力が与えられることを教えています。

 


 

 2018年7月22日  

   題:「まことの礼拝」 聖書:イザヤ書111節~20

 

 イスラエルの人たちは、預言者イザヤからの「神に耳を傾けていない、真に神に聞くように」という非難に対して、自分たちは、捧げものもちゃんと行っているし、決められているさまざまな集会・祭りごともしっかりと守っているし、日々の祈りも欠かさずにして、礼拝をささげているという反論をしています。

 

 彼らの反論に対して、イザヤは、あなた方の礼拝はまことの礼拝ではなく、偽りの礼拝であると厳しく指摘しています。つまり、彼らの礼拝はうわべだけの、心のこもらない、心から悔い改めのないものであり、自分たちの行いをただ神に聞くことの手段として考えまた、行いによって神の恵みと赦しが得られると誇っているが、それは間違っている。だから神は喜ばないし、忌み嫌い、集会を憎み、祈りを聞かない。それらは御心にかなっていないと指摘します。

 

 御心に叶うためには、悔い改めて、悪を行うことをやめなければならないし、祈りを自分のためだけではなく、他者のためのとりなしの祈りでなければならないし、特に弱い立場にある人に寄り添い、共に生きていくことが必要になる。

 

 悔い改めのない捧げものや集会及び祈りは、偽りの礼拝であり、心からの思いがなければ、神は喜ばれないし、自分だけではなく、他者のことを考える、特に弱い立場に置かれている人たちとのかかわりのある礼拝でなければ、まことの礼拝にはならないと。

 

 イザヤは彼らの礼拝はまことの礼拝になっていない。だから神の裁きを受けて、国は崩壊寸前になっている。しかし、イザヤは、この裁きは最後通告ではない。まだ望みがある。本当に悔い改めて、真に神に聞くならば、不可能なことを可能に、黒を真っ白に、呪いを祝福に変えられる、全能の生ける神が働いて、囚われの状態から開放して、国の復興を成し遂げてくださると約束しています。

 


 

  2018年7月15日

 題:「神に耳を傾ける」 聖書:イザヤ書11節~10

 

 人と人との関係において、円滑な関係を築くためには聞くことが必要不可欠であり、またそれ以上に神と人の関係においてはより大切であり、聞くことができずに破綻する深刻さは、神と人の関係においては、より深刻になり、救いか裁きか、生か死か、祝福か呪いかが決まってくると言っても過言ではありません。

 

紀元前700年前後に活動した預言者イザヤが、イスラエルの民に、「耳を傾けて、神に聞き従うように」としつこく語り掛けています。

 

イスラエルの民は自分たちを神が自分の子として選び、やさしくし、深く愛し、守り続けていたのに、恩を仇に返すようなことをして、主人がだれであるかをしっかりわかって従っている家畜よりも劣って、父である神に背き、侮り、聞き従わずに、偶像なる神々に心を寄せていたのでした。

 

神はイスラエルを悔い改めさせるためにさまざまな懲らしめをしてきましたが、何の効果もなく、彼らは、エルサレムの町だけ残り国が崩壊寸前になっていても、そんなひどい状態になっても、かたくなな状態であり、神に縛られずに自由を得たい、偶像なる神々に頼んで、自分たちの願いや欲望を満たしたいという強い思いがあり、聞き従うことをしませんでした。

 

 神がしつこく聞き従うように言ったのは、神に縛られていてこそ真の自由が得られるし、命を初め良きものはすべて神から生まれ、神が与えてくれるものであることを知ってほしかったし、全滅させずに、わずかな者だけを残したのは、神はイスラエルを通して救いを実現していくこと、神の国を実現していくためには、彼らを選び、用い、必要としていたからでありました。

 

神は、イザヤを通して、神の願いと思いを信じて、悔い改めて、耳を傾けてほしい、それを待っていると強く語ります。

 


 

2018年7月1日

:「神の知恵なるキリスト」 聖書:コリント書一118節~25

 

 教会の使命の一つが宣教です。福音を宣べ伝える宣教が使命の一つです。宣教の使命は、行いや業によってではなく、信ずることによって人を救うためであり、信ずるためには、聞くことが必要であり、聞くためには、福音を宣べ伝える人が必要であるからです。

 

 救いを得るために信ずることが必要とされたのは、行いや業によっては私たちは神に義とされ、祝福されることができないからであり、そのため神は人間にただ信頼し、信ずることを求めたからであり、その救いを自らの手によって、つまりイエスの十字架と復活によって実現されていて、実現されている神の救いを受け入れ、信ずるだけで、人間において実現していくことになるからです。

 

 奇跡などのしるしを通して神の救いを得ようとするユダヤ人や理性や知恵を働かせて神に辿り着こうとするギリシャ人にとって神の知恵や力が愚かに思えたのは、行いがなくて、ただ信ずることによって救いを得ようとするからであり、十字架につけられたキリストが神の知恵と力であると宣べ伝える事柄についてでもそうでした。

 

 彼らが、十字架につけられたキリストは神の力と知恵であることが理解できずに愚かに思えたのは、十字架に愛があることを、神の豊かな、無上の愛があることがわからなかったからであり、他者を赦し、他者と生きていくために、受けた傷の悲しみと戦い、怒らずに忍耐し、罵られても罵らず、言えるべき文句を言わずに、ただ他者を配慮する思いを優先して生きる愛というのが人には弱く、愚かに見えたからであり、決定的なことは、彼らの力や知恵には愛がなかったからであり、だから意味がないと言われています。

 ばかばかしいと思われることでも信じて救われた者はダイナマイトのようなすごい神の力が働き、困難中にあってもへこたれずに、倒されずに、望みと喜びを忘れずに生きていくことができるのです


 

2018年6月24日

:「イエスを誘惑する悪魔」   聖書:ルカ書41節~13

 

 私たちは日常の生活の中で、さまざまな形で試みられています。例えば学校や会社などの試験で能力や人格が試されたり、子供が親の愛を試したり、神への信頼が試されたりするなどです。

 

 主イエスが悪魔から誘惑を受けられていることに対して、神の子が何で試みられるのか、という疑問がでてくるところですが、イエスでさえ試みられているのであるから、私たち人間がいろいろと試されることは当然ありうることであると思えば、ホットできます。

 

聖書はイエスが試みられているのは、私たち人間を助けるためであり、神が荒野に追いやり、試みられ、これから救い主としてどのように生きていけばよいか、人間をどのようにして救い出していけるかという課題の答えを得るためであると語っています。

 

悪魔が主イエスを誘惑している狙いは何かというと、それは、アダムとイブがヘビに誘惑された創世記の記事が示しているように、神から引き離すことであり、神を必要とせずに、神なしで生きていき、神のごとく生きようという思いを与えることであり、神の支えや愛を信頼することができなくさせるということでした。

 

 主イエスは悪魔の誘惑に対して、徹底して、神の言葉をもって反論し、試みに勝利されています。つまり、一人の人間として、生きていくためには神の言葉の養いが必要であり、霊的に満たされていてこそ真に安らぎを得られるし、権力などの偶像なる者に頼らず、唯一の生ける神である方を拝み、信頼することであり、神を自分のために都合よく利用しないで、すべてをよりよく配慮したくださる神にすべてをゆだねる生き方を示されて、試みに勝利されています。

 

 主イエスは、神に造られた人間であるというところに固く立ち、生ける神だけにすべてを賭けて従っていくという固く信仰に立つことによって、生ける神からの豊かな祝福を受けられています。

 


 

2018年6月17日

:「救いのしるし」   聖書:イザヤ書 71節~17

 

 これまでの歩みの中で、心を騒がせ、心を乱し、心が沈むような厳しい状況にあるときに、私たちはどのような対応をしてきていたのだろうかと思いめぐらす時、さまざまな対応が浮かびます。

 

 それは、現実から目をそらして、他のことで紛らわして過ごしたり、時間が解決すると思って、ただひたすら我慢し続けてきたり、その場しのぎの対応であったりして、根本的な解決をしてこなかったことが多かったようにも思います。

 

 本日の箇所で、預言者イザヤが示しているメッセージは本当の解決がここにある、つまり、信仰にある。ただ神を信頼することにあると確信をもって伝えていることです。

 

 紀元前8世紀頃、ユダの国(南イスラエル)の王であったアハズが、北イスラエルがアラムの国と手を組んで、ユダの国に攻めてくるという知らせを受けて、ひどく動揺していた時に、預言者イザヤがアハズ王を励まします。

 

イザヤは、二つの国が攻め込んで、南イスラエルを滅ぼすという企みは絶対うまくいかない。だから落ち着いて、静かにしていなさい。恐れずに心を強くしなさいと伝え、この神の言葉を信じなければ、守られず、持ちこたえられず、だめになる。神の言葉が真実である確信を得るためにも祈ってしるしを求めなさいと語ります。

 

 アハズ王が、私は求めないと答えたのは、解決はアッシリアの国に助けを求めることにあると思い、神の助けを信じ、信頼することができなかったから。ここに信ずることの難しさが示されている。

 

 イザヤは、軍備に頼り、人間に頼っても根本的な解決にはならない。本当の解決は、愛と平和をもたらすために日夜生きて働いておられる、全能の生ける神を固く信じて、救いのしるしを祈り求める信仰を土台とする生き方を抜きにしてはあり得ないと語っています。

 


 

2018年6月10日

:「裁きと救いと召し」   聖書:イザヤ書 61節~13

 

 「誰が我々のために働くだろうか」という神の声を聴いたイザヤは、「私を遣わしください」と応え、預言者の道を歩み始めています。

 

自分の夢を捨て、預言者の働きも苦難を強いられることが言われる厳しい状況の中で、モーセやエレミヤと違って、困難を乗り越えて、イザヤは主体的になり、積極的になって、神の求めや期待に応えようとした。何があつたのか。応えようとした根拠は何か。

 

 それは、神の期待に応えていくことの光栄さであり、神のために働くことに意気を感じたことであり、神のために生きることが真に人のためになると思い、神のために働くことによって、自分が高められ、豊かにされ、尊いものになれると思ったからかもしれない。

 

 決定的な根拠は、万軍の主であり、生きて働いておられる大いなる神に出会い、大きな喜びと望みを得たからかもしれない。

 

 イザヤが預言者としての召命を受けたのは、40年間南イスラエルの国を治めた名君ウジヤ王が死んだ時、彼が神殿に行き、祈っていた時でした。この時、彼の中には何か恐れや行き詰まり感があったのかもしれません。

 

この時、光り輝くセラフィムが現れ、圧倒的な生ける神の臨在に触れ、自分の弱さや罪深さをいやというほど気づかされ、このまま自分は滅び、死んでしまうのではないかと裁かれる思いになると同時に赦されているという思いも与えられる中で、預言者としての召しを感じています。

 

 イザヤは、神は、ご自分の業を行うために必要とし、選び、期待し、用いられるのは罪人であるという御心に目が開かれ、主体的になって、預言者としての厳しい歩みに突き進んでいった。

 

 イザヤの召しを通して示されているのは、神は私たちに対しても、神のために働くものは誰であろうかと呼びかけていることです。

 


2018年6月3日

:「キリストにつながる私たち」

 

聖書:コリント書Ⅰ 1212節~31

 

 私たちはさまざまな違いがある中で生きています。私たちは顔かたち、性格、考え方も違うし、民族・人種や思想・信条にも違いがあるなど、様々な違いがある中で生きていかなければなりません。

 

 一つとなって、バラバラにならず共に生きていくためには、さまざまな違いを拒絶したり、排除せずに、差別や偏見を持たずに、又同じでなければ仲良くできないということもしないで、そうではなくて、違いを認め合い、尊重し合っていくことが必要になります。

 

 パウロは、さまざまな違いがあることは必要なことであり、それぞれが皆尊厳さを持ち、弱いと思われるところこそ大切な働きをしているし、優れていて、強くて、豊かさを持っている人は、高ぶらずに、見下したりせずに、弱い人を尊重でき、弱い人はねたんだり、すねたり、自己卑下もせずに、優れた人をほめたたえることができ、他人の苦しみを自分のこととして受け止めて共に苦しみ、お互いを自分を高め合うことができる存在として認め合う愛の共同体、言い換えれば、皆が自分の居場所が見つけられ、心地よさを感じることができる愛の素晴らしい共同体に言及しています。

 パウロは、愛の共同体とは全く異なっていて、対立があり、自己中心で、身勝手に生きている人が多くて、一つになれずにいるコリント教会の人たちにこのことを訴えているのは、単に理想を語っているのではなく、「私には夢がある」と語ったキング牧師のように、必ず実現できる夢としての確信があったからです。なぜなら、教会には愛が支配しているから、愛であるキリストが共におられるから、人々はそのキリストにつながっているから。キリストの愛に支配されているから、だから愛に生きようとする共同体が実現していく、そう確信して、失望せずに、希望をもって語っています


 

2018年5月27日

:「元気を出しなさい」 聖書:使徒言行録 2713節~38

 

 キリスト者の世における責任や貢献の一つが望みを語ることであると思います。すなわち、絶望的な状況の中にあっても、あきらめてはならない、なんとかなる、大丈夫だ。だから元気を出しなさいと励ますことができるのがキリストの使命の一つです。

 

 ローマ行きの航海で、幾日も続く暴風に会い、パウロ達が乗っていた船が沈没しそうになり、助かる望みが全く消え失せて、パウロ以外の人々は絶望し、何日も食事ができなくなっていました。

 

 パウロは、人々に元気を出しなさいと何回も励ましています。ほかの人たちと同じ危機に置かれても、パウロは必ず助かると言って、励ますことができています。誉れある振舞いができています。

 

 パウロがこのように助けられる望みの確信を持っていたのは、彼自身の強い力によってではなく、神からの助かるという約束の言葉を彼が直接聞き、その言葉を信じていたからでした。

 

 私たちは、直接神の言葉を聞くということがなくても、聖書を通して、すべてを支配し、支え、救いをもたらし、安心して生きていけるように配慮してくださる大いなる、全能の、愛に満ちた生ける神が共にいてくださるという約束の言葉が与えられています。

 

 だから私たちは、様々な試練に会い、死などの恐怖を感じ、絶望的な状況にいる時、絶対必ず助かると言えないが、絶対助からない、奇跡は起こらないとも言えないし、御心ならば、奇跡が起きて、助かる可能性はあるという望みを持てるのではないか。

 

 神に愛されているという約束をしっかりと信じていくならば、様々な危機や苦悩を自分を磨き、高めるための課題としてしっかりと受け止めることができ、絶望せずに、大丈夫だと思え、望みが得られて、元気を出していくことができるのではないか。

 

大事なこととして問われるのは、固い信仰があるかどうかです。

 


 

2018年5月20日

題「聖霊の賜物を生かして仕える

聖書:ペトロの手紙 Ⅰ 11節~2節 47節~11

 

 ペトロは、さまざまな試練の中で苦闘している各地にある諸教会に対して、励ましや慰めの手紙を送っています。

 

厳しい試練によって、人々の信仰が揺らいでいるのではないか。しかし、万物の終わりが迫っているから、信仰に固く立ちなさいと勧めています。

 

あなた方は、聖霊の力を受けて、新しくされ、思慮深く振舞い、身を慎んで、よく祈る信仰に生き、教会が誕生し、人々は最も重要なことは、愛に生き、他者を赦すことであり、それがみ心であることを知り、傲慢にならず、分別をわきまえ、謙虚になって、お互いを認め会い、お互いが与えられている賜物を生かし合い、協力して共に生き、皆が自分の居場所を見つけて生きる信仰に固く立ちなさい。試練に負けて、信仰を捨て、賜物を生かし合うことができず、不平を言い、ねたんだり、卑屈にならないようにしなさいと。

 

 試練を与えるこの世の様々な力はいつかは終わりが来て、滅びてしまう。いつか必ず神の栄光が現れる時が実現し、すべてを支配しているのは生ける神であり、神の愛によって私たちは支配されていることが明らかにされ、神を信ずる信仰が真理であることが証明され、信仰による苦労が報われ、あなたの人生は真実なものであることが示されて、信仰に生きることは無駄ではなかったということが確信できる時が必ずくる。

 

 生ける神はご自分の栄光を実現する時、信仰に生きた人々を用いられる。つまり、生ける神は、ご自分のいのちの書に、覚書に、信仰者の名を刻み、忘れないで、覚えておられ、いろんな形で用いられて、救いの業を行う栄光を実現される。だ

から決して信仰は無駄にならないから、しっかりと信仰に生きるようにと励まします。

 


 

2018年5月6日

:「喜んで弱さを誇る」

聖書:コリント書Ⅱ12110

 

 自分にいろんな弱さがあれば自信がもてなくなり、恥ずかしくなり、つらくなり、苦しくなります。そのためにその弱さを隠そうとしたり、弱さを知られたくないために、無理に強がったり、威張ったり、他者を見下したりして、パワハラなどが起きます。それほど弱いということは私たちにとって嫌な耐え難いものになります。

 

 パウロも弱さが自分を苦しめ、つらくさせていると受け止め、その弱さがなくなるように必死になって祈るほどに、その苦しみは大きく深刻なものであると感じています。

 

 しかし、一転して、パウロは弱さを誇る、大いに喜んで誇るという不思議な驚くべき言葉を語っています。

 

 彼はどうして弱さを誇ると言えるようになったのでしよう。開き直り、やせ我慢、から威張りからきているのでしょぅか。そうではないようです。弱さが高ぶらせずに、謙虚にさせる豊かさを与えるからでしょうか。それは決定的な理由ではないようです。

 

 決定的な理由は、弱さにおいて神の力や栄光が現れる。神は救いの御業を行い、ご自分の栄光を実現するために弱さを必要とし、弱さを用いることをパウロは確信できたからです。

 

 自分の弱さ、伝道者として適格者であるのかと失望させていた罪深いという弱さがあっても、憐れみ深い神は、罪を赦され、逆にその罪があるからこそ、選ばれ、必要とされ、伝道者としてふさわしい者として用いられている、罪を通して神は、聖霊を注ぎ、伝道者に必要な力はすべて与えておられる。神の恵みは十分に注がれている。だからあるがままでよい、弱さに生きてよいと思って、それが自分らしく生きることだと思え、平安になり、囚われから解放され、自由に生きることが真の強さであるとパウロは確信できたからです。

 


 

2018年4月29日

:「恐れず、語り続けよ」

聖書:使徒言行録18111

 

 ゼロからの出発であり、しかも道徳的に乱れていたコリントの町で開拓伝道し、反発やののしられるという恐怖に遭遇させられる中で、パウロが腰を据えて一年半の間勇気を出して福音を宣べ伝え続けられたのは、パウロ個人の強い精神力だけではなく神からの励ましがあったからです。

 

 このことは、人間は皆助けを必要とする弱い生き物であり、弱さは情けないことでもなく、大切なことは、よりよく生きる力を与える真に頼るべき存在と共に生きることであることを示しています。

 

 神からの励ましの言葉とは、「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる。あなたに危害を加える者はいない。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」という言葉でした。

 

 この言葉によって、パウロは、伝道は神と共に行う働きであり、神が責任を持つ働きであることが確認でき、結果について責任を感じる必要はないし、神はすでに救われるべき人を確保しているし、結果はすべて神にゆだねて、ただ福音を宣べ伝えていくだけでよいと思え、気持ちを楽にでき、他人にこびずに恐れずに勇気を出して語り続けることができたのではないか。

 

 神の働きに参与する伝道には、神の恵みと祝福を受ける報いがある。つまり、心豊かに生きる人を造る福音の豊かな働き、その豊かさに生きる。魂の救いという福音の尊い働き、その尊さに生きる。

 

神の国を実現する福音の偉大な働き、その偉大さに生きる。この恵みによって、大いなる喜び、誉れ、望が生まれ、パウロはさまざまな困難や苦しみを乗り越えて恐れずに伝道することができた。

 

 パウロが感じた勇気の最大なる根拠は、共にいてくださる神は生きておられ、すべてを創造し、支配している全能の愛と平和の神であることを一途にひたすら信ずる信仰です。

 


 

 2018年4月22日

:「知られざる神」

聖書:使徒言行録171634

 

 その当時、文学や芸術が盛んで、文化的中心地であったアテネの町に多くの偶像なる神々が祭られているのを見て、パウロは憤慨しています。

 

 パウロの憤慨は決して偶像なる神々を信じていることへの軽蔑ではなく、そうではなく、パウロは人々が信仰のあつい方であることを認めているように、信ずる心には、自分や人間は完全ではなく、限界をもっており、一人で完全により良く生きていける力や知恵はないし、大いなる存在に依存し、その存在に守られ、助けられ、支配されることによってよりよく生きていける存在であるという真理と深い知恵に生きていると認めていることになります。ですから憤慨する心には軽蔑ではなく、伝道する熱意や福音のすばらしさへの確信そして人々への愛が表れていると理解できます。

 

 パウロは、「知られざる神に」という祭壇があるのを見て、知らずに拝んでいるものを知らせようと言って、次のように語っています。

 

「その方は、万物を造られた方で、すべてを与え、支配し、救い、助けてくださる方であり、人間が考えて作り出した石や鏡などの像ではなく、ご自分から人間の前に現れ、啓示し、人間の歴史を支配し、私たち一人一人を顧み、助けて、生きて働いている創造主であり、全能の神である。この生ける真の神に立ち返りなさい。そうすれば平安、喜び、感謝そして命と自由が与えられる」と伝えます。

 

 パウロの説教は旧約聖書に記されていることを信じ、そのことが主イエスの十字架と復活の出来事によって証されていることを信じ、そして彼自身が復活されて生きている主イエスに出会い、大いなる力に圧倒され、悔い改めさせられ、赦され、愛される経験をし、いつも共にいて、支え、導き、助けてくださる生ける神を信じることができる信仰から来ています。

 


2018年4月15日

 

:「誇る者は主を誇れ」

聖書:コリント書Ⅱ101218

 

 私たちには誇りが必要であり、誇りが持ててこそよりよく生き、豊かに生きられ、どこかかっこよいし、魅力があります。ですから、皆私たちは誇れる人間でありたいという欲求を強く持っています。

 

 聖書は、誇りをもって生きることができない人がいるのか、いやいないし、皆誇りに生きることができると断言しています。このことを表しているのが、「誇る者は主を誇れ」というパウロの言葉です。

 

パウロも、誇りが必要であり、なくてならないものであると言いつつ、ただその誇り方に正しいのと、間違ったものがあると諭しています。つまり、傲慢にさせ、おごり高ぶらせ、人間性を貧しく、愚かにさせ、卑しくさせる、悪い誇りがあると諭しています。

 

 間違った誇り方をする人たちは、自分自身を推薦し、自分の能力や行いを挙げて、他人と比較して、他人を過小評価し、自分を過大評価しながら、人よりも優れていると誇り、他者を見下し、軽蔑するような人間になってしまうとパウロは非難しています。

 

 誰よりも誇りうる業を成し遂げていたパウロがうぬぼれずに、謙虚になれる人間性を持てたのは、自分の働きはすべて神がなさった業であり、ただ自分は神に用いられただけであり、すべては神から与えられた業であり、赦されて生かされている自分であるという自覚があったからでした。だからパウロは主を誇ることしかできなかつたし、主を誇ることによって自分も豊かな業を行い、誇りを見出すことができた。だから誇る者は主を誇れと主張しています。

 

 主を誇るということは、神の愛と慈しみを信じ、大事にし、そこにすべてを賭けて生きることであり、神は神の愛と慈しみに生きる者を神の業に用いられるから、神の慈しみに生きる者は誰でも自分自身に誇りうるものがなくても、夢中になれる誇りうるものが与えられ、謙虚さを保ちながら、豊かに生きることができると言います。

 


2018年4月8日

 

:「人生の同伴者」

聖書:ルカ福音書241335

 

 私たちが復活したイエスを信じ、復活の信仰に本当に生きているかどうかを判断するのが心が燃えているかのかどうかです。つまり悲しみや苦しみそして恐れにとらわれずに、前向きに、力強く、望みを持って生きているかどうか、さまざまな困難があっても、その困難を乗り越えていくことこそが人生の楽しみであると思って、強く生きる生き方があるかどうかが問われるのかもしれません。

 

 復活を信じていない、エマオへ向かう二人の旅人の心は暗く、嘆き悲しみ、不安や恐れの中にありました。この二人に主イエスが近づいて、共に旅をすることになっても、彼らは、同伴者が復活したイエスであることに気づかなかったし、女性たちから、墓は空っぽであり、天使がイエスはよみがえられたと言っていたと聞いても信じることはできませんでした。

 

 彼らが信ずることができなかったのは、イエスは死んで墓に葬られたという思いに強く囚われていたからであり、必ず救い主は苦難を経て栄光を受ける、十字架で死んだ後に復活するという約束の言葉を信じていなかったからであるとイエスから諭されています。

 

 彼らがイエスだと気づいたのは、イエスが主人としての権威をもってパンを割く食事をしていた時であり、彼らが僕のように心を低くしていた時でした。

 

 イエスへの期待が外れて失望した思いを話しながら旅をしている二人に主イエスは近づき、「恐れることはない」と言って同伴者となっているこの物語は、イエスの名によって二人三人が集っている教会において、私たちにおいても、生きているイエスが必ず共にいてくださるという約束が実現することを示しています。

 

 この約束の言葉をしっかりと信じることによって、私たちの人生に同伴者なるイエスがおられ、心を燃やす生き方が実現します。

 


2018年4月1日

 

:「命の勝利」

聖書:マルコ福音書16111

 

 何かがダメになっていたのが元に戻って良かったと感じる復活とは違って、死んだイエスが新しい命によみがえるイースター(復活)の出来事は、ありえないことであるし、馬鹿げていて、愚かしいことであり、良いこととして信ずることは本当に難しい。

 

 愚かで、バカバカしいと思えることを聖書が本気で、一生懸命になって伝えているのは、復活は希望であるからであり、真理であり、歴史的事実であり、何にも代え難い宝であるからです。

 

 死んで墓に葬られて三日目の日曜日の朝に、マグダラのマリア達がイエスの身体に香料を塗るために赴くと、墓は空っぽで、白い衣を着た若者から、「あの方は復活なさってここにはおられない」と言われ、彼女たちは恐ろしくなったことが記されています。

 

 復活は、イスエが言われたことや行ったことは御心に適い、神かに遣わされた救い主であることが真実であり、また恐ろしく不気味な力である死が滅ぼされ、命が勝利した出来事であり、信ずる者は、生きている水が滔々と流れるごとくに、飢え渇くことなく、生き生きとして、ワクワクしながら、生きる命が得られ、そして私たちを支配しているのは、裁く力ではなく、愛の力であることが証明された出来事です。

 

 復活が幻でもなく、作り話でもなく、歴史的事実であることを示していると思えるのは、弟子達の変貌です。つまり、かれらは、復活したイエスに出会ってから、臆病であったのが、雄々しくなり、命を懸けて、イエスは復活した、この方こそ救い主であることを力強く証しするようになり、本当に見違えるように変わったことです。

 

復活は理性や分析などによって解ることではなく、ただ信ずるしかない。幼な子のように、謙虚になって、素直になって、死に勝利されて永遠の命に復活して生きているイエスを信ずるしかない。

 


 

2018年3月25日

  題:「救い主イエスの死」

  聖書:マルコ福音書153341

 

 十字架上で、イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てになったのですか」という悲痛な、絶望的な叫びをあげておられます。

 

 この絶望的な叫びには、救い主としての偉大さや毅然さが見られない。あまりにも弱弱しく、臆病で惨めであると思い、イエスには救い主としての自覚はなかったし、救い主でもないことの表れだと理解し、つまずく人もいるに違いありません。

 

 ただそのように理解することは間違っていることを示しているのが、十字架上のイエスを見て、「この人こそ神の子である」と理解し、イエスを普通の人間ではなく、特別な存在であると告白できた百人隊長の存在です。この信仰告白をどう理解すればよいのか。

 

 一つは、イエスが侮辱され、創造を絶するような苦しみに沈黙を守り、じっと耐えて十字架の道を歩む姿から、この絶望的な叫びは、死の恐怖におびえているのではない、と理解することです。

 

 もう一つは、「なぜお見捨てになったのですか」という絶望的な叫びの理由は、神から救い主の使命を与えられ、多くの人を救いに導く約束を得ていたのに、実際は弟子や他の人々から見捨てられたのを見て、「神にも見捨てられたのではないか」思い、どうしてですかと問いかける叫びであると理解することです。

 

 三つ目は罪深い人間の身代わりとなって裁かれ、罰せられ、死に追いやられるイエスは、死によって神との関係が断ち切られることがどんなに悲惨であり、いつも神と一体であつた状態から切り離されるイエスにとっては特にどんなに恐ろしいことであるかがよく解っておられるところからの絶望的な叫びであると理解することです。

 

この絶望的な状況に於かれているにも関わらず、投げ出さないで、わが神、わが神、と呼び絶大な信頼を寄せている姿として理解し、この姿にこそ救い主としてのしるしがあると理解することです。

 


 

 2018年3月18日

 題:「イエスを罵る人達」

 聖書:マルコ福音書152132

 

 つばをかけられ、罵られ、バカにされ、侮辱され、人格を否定され、虫けらのように扱われ、みじめな、悲惨な状態に置かれているイエスの姿に、おぞましさ、恐ろしさを感じます。

 

「神よ、なぜ沈黙を守っておられるのですか。あなたが義であり、愛の存在であり、生きて働いている存在であることが解るように何か仰ってください」と祈らずにおれないような沈黙があります。

 

 「神よ、なぜ沈黙されているのですか」という問いかけに、神は沈黙の中でしっかりと答えを出しておられるのではないか。それは、イエスを罵る人達がどんなに愚かで、邪悪で、みじめな存在であることがはっきりと浮かび上がることによって、裁かれているのは、彼らであることが見えてきていることによってです。

 

 彼らの「他人を救ったのに、自分は救えない」と言って侮辱している言葉は、彼らはイエスが愛に生きておられたことを認めることになり、愛に生きることが奇跡などのすごい力ある業よりもより尊く、より豊かであり、より偉大なことであることが解っていないし、愛が救いの最も根源的なものであることを理解していないことが暴露されて、彼ら自身が裁かれていることが見えてきます。

 

イエスが虫けらのようにひどい扱いを受けていることは詩編やイザヤ書の預言が成就されている出来事であり、そこに神の働きかけがあり、神は沈黙せずに、イエスをしっかりと見守っていることになり、沈黙の中で雄弁に語っていることが示されています。

 迫害や差別そして冤罪などの不条理な苦悩を受けている人々は、自分たちは決して裁かれ、呪われ、見放されてはいないし、むしろ自分たちの悲しさ、絶望をよく解っておられる、大いなる生ける神と救い主イエスが共にいてくださるという確信が得られ、慰められ、癒され、しつかりと望みに生きることが出来るにちがいありません

 

2018年3月11日

   題:「死と向き合い、祈るイエス」

   聖書:マルコ福音書143242

 

 十字架の苦難と死を迎える直前に、イエスは恐れ悶えていましたが、しばらくしたら、恐れから解放され、落ち着かれ、心晴れやかになり、勇気をもって死に向かって突き進んでいかれました。

 

 この変化は祈りによるものでした。真剣に、本気になって祈る中で、神から力と知恵を与えられたのでした。ことあるごとに祈られたイエスを見習って、私たちも絶えず祈り、その祈りが力ある祈りになっているのか、私達の祈りの真剣さ、本気度が問われます。

 

 ゲッセマネでの恐れ悶えるイエスの祈りをどう理解すればよいのか。弱く、臆病で、死の恐怖に敗北する私達と全く違う力に満ちたイエスが、怯え悶えた状態になられたのか不思議に思います。

 

 考えられるのは、自分の死に恐怖を覚えたのではなく、神から遣わされ、神の教えと愛を伝えた自分が呪われるようにして、みじめな姿をさらけ出し、敗北者のように死んでいくことが弟子達や人々をつまずかせ、神の力と愛を信じられなくなり、神に躓き、神から離れて、信仰によって与えられていた賢さが消え、愚かなひとに戻り。豊かさが消え貧しくなり、尊さが消え卑しくなり、古い人間に堕落していく人が出てくるのを恐れる思いがあって、この杯を取り除けてくださいという祈りが出て生きていると言えます。

 

 ゲッセマネの祈りに、イエスは、3人の弟子達を連れていかれた理由は、彼らに直面する苦難や試練の備えを身につけさせる願いがあったからかもしれません。つまり、困難や試練の備えこそ祈りであり、祈りこそ希望をもって困難に耐え乗り越えていく力と知恵が得られることを示し、具体的には、人間を救い、幸いをもたらし、祝福となるところのみ心が行われますようにという祈りを祈ることを示し、この祈りを祈り続けていくことによって正しい、深い祈りと成長し、万全な備えが身につけられるようになると思われたから。

 


 

 3月4日

    題:「ペトロの裏切り」

  聖書:マルコによる福音書14章27節~31節、66節~71節  

 

 主イエスが十字架の道を神のみ心と信じ、苦難や死の恐怖に打ち勝ち、まっしぐらに、ぶれることなく、毅然として突き進まれていく一方で、弟子たちは恐れて、主イエスから逃げて、主イエスとは関係ないと言って、裏切る堕落した姿が描かれています。

 

 教会の指導者であり、優れた伝道を成し遂げたペトロの卑怯な、ふがいない、罪深い姿が赤裸々に、正直に描かれているのは、どうしてなのかと不思議に思います。

 

 あるがままの姿を描いている理由は、初代教会の人たちが私達にぜひとも訴えたい大事なことや本当に分かってほしい大切なことや必ず受け入れたほしい尊いことがあったからかもしれません。

 

 一つは、教会の中心人物として働いた優れたペトロでさえ弱さや愚かさを持っているから、どんな人も弱さや愚かさを抱えているのは当然であるし、そのことに心を閉ざさずに、心を開いて、自分の弱さや罪を認め、悔い改めをすることが大事であり、そのことによって、心が浄化され、新しく生まれ変わり、さらに豊かに、大きく、優れた人間に成長できることを訴えたかったかもしれません。

 

 もう一つは、立派でもなく、正しくもなく、弱く、罪深かったペトロが神に愛され、御業のために必要とされ、用いられていることは、どんなに愚かであっても、人は皆神に赦されない人はいないし、どんな罪も赦さないことはないし、どんな人も赦され、必要とされる大切な人間であることをしつかりと受け入れてほしいという願いがあったのかもしれません。

 

 罪深いペトロが素晴らしい伝道者に生まれ変わるきっかけとなったのは、主イエスの毅然とした、愛溢れた言葉に出会い、弱く愚かな自分の赦しを確認でき、癒され、慰められ、尽きない涙を流すほどの深い悔い改めをし、新しい人に変わることができたからてす。

 


2月25日

 題:「終末の到来」

聖書:マルコ福音書13113節 

 

 私たちには避けられない死をどう迎えるかということは、大事な課題になります。突然に、思いがけない形で、前触れもなく、やってくるこの世の最後となる死を恐れから解放されて、安心して、穏やかな状態で、自分の人生はこれでよかったと思って悔いなく、感謝して迎えられることは幸いなことです。

 

 この幸いをもたらすことの一つが神の救いを得て生きることであるから、救いを与える信仰を最後まで耐え忍び、持ち続けなさいと主イエスは励ましています。

 

 主イエスが励まされているのは、信仰を持ち続けていくことを困難にする障害があるのが解っておられたからでした。つまり、ご自分をただ信ずる信仰によって救われることを否定しようとする、惑わす人が出てくる。また戦争や地震などの悲惨のことが起きる。権力者などの人々から迫害を受けたり、家族との関係が悪くなるという悲しみを経験する。これらのことは起こることが決まっていることであり、神が無力だから起きることでもないし、世の闇のような苦難はずっと続いて世の終わりがくるわけでもない。これが世の終わりではない。だから惑わされないように気をつけなさい。

 

さまざまな苦難に苦しんでいる時でも、決して一人ではない。聖霊を通して神が共にいて、あなた方を慰め、癒し、平安を与え、苦難に耐えられる力が与えられる。だから神の愛に留まり、信仰を捨てないで、しっかりと立ち続けて生きなさい。

いつか必ず、神が生きて働いている大いなる方であることがはっきりと明らかになる時が来る。主イエスの再臨があり、わたし達を真に支配している平和と愛の神の国が実現する終末が必ずやってくる。そう信じて、最後まで忍耐して、死に臨んでも安らぎと癒しをもたらす信仰に生き続けなさいと主イエスは励ましておられます。


2月18日の礼拝説教

「イエスの覚悟」

 

聖書:マルコ福音書11章1節~11節

 

 十字架への道を歩む覚悟を決められた主イエスは、ご自分を攻撃し、命を殺害しよう思っている権力者達がいるエルサレムの町にロバに乗って入っていかれています。

 

 闘いにふさわしいと思われる屈強な、たくましい軍馬を用いずに、柔和なロバを用いられたのは、イスラエルを救う王はロバに乗ってくることを数百年前に預言者ゼカリヤが預言しているのを意識して、ご自分こそ王として神の支配を実現し、人類を救い、人間がさまざまな恐れから解放されて、癒され、安心し、希望を抱いて生きることができる王としての使命を与えられているという確信があり、そのことを表そうとしたからではないか。

 

 主イエスはこのことが真実であると思われたのは、多くの人々が、その当時の習わしに従って、王を迎える時道に服を敷き、木の枝を敷いて、ホサナと叫びながら喜んで迎えたのを見た時であったに違いありません。

 

 主イエスを王として迎え、自分たちを救ってくれると期待した人々の中に、後で、心変わりして、権力者たちと一緒になって十字架につけよと叫ぶようになっています。

 

 人々がこのように変わったのは、主イエスが、力づくで、ローマをやっつけ、強い王としてふるまわずに、柔和なロバのように、仕える王として、人々を赦し、愛することを通して救いを実現する王としてふるまうことに失望したからでした。

 

 主イエスは、生ける神が、救い主として働くために必要なことはすべて備えてくださっていると信じ、すべてをゆだねられたように私たちに対して、ご自分を王として迎え、まず神の国と神の義を求めて、恐れを取り除き、癒し、慰め、安心して生きていけるように配慮する神の計らいと顧みにすべてをゆだねるように勧めています。