降誕節第1主日礼拝

日時 2021年12月26日(日)午前10時半

説教題 「星に導かれて」 聖書 

マタイによる福音書2章1節~12節

説教者 茶屋明郎牧師


クリスマスイブ礼拝

日時 12月24日(金)19時半~

説教題 「あなたのためのクリスマス」

聖書 ルカによる福音書2章8節~21節

説教者 茶屋明郎牧師


待降節第4主日礼拝 クリスマス礼拝

日時  12月19日(日)午前10時半~

説教題 「飼い葉桶のイエス」

聖書  ルカによる福音書2章1~7節

説教者 茶屋 明郎牧師


待降節第3主日礼拝

日時  12月12日(日)午前10時半~

説教題 「マリアの賛歌」

聖書  ルカによる福音書1章26~38節

説教者 茶屋 明郎牧師


  待降節第2主日礼拝

日時  12月5日(日)午前10時半~

説教題 「主の道を整える」

聖書  マルコによる福音書1章1~7節

説教者 茶屋 明郎牧師


   待降節第1主日礼拝

日時  11月28日(日)午前10時半~

説教題 「待ち望む心備え」

聖書  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章1~11節

説教者 茶屋 明郎牧師


降誕前第5主日

日時  11月21日(日)午前10時半~

説教題 「天地の創り主を信ずる」

聖書  創世記 1章1節

説教者 奥園 淳牧師


降誕前第6主日

日時  11月14日(日)午前10時半~

説教題 「審判の預言」

聖書  アモス書 1章1節~14節

説教者 茶屋 明郎牧師


降誕前第7主日

日時  11月7日(日)午前10時半~

説教題 「救いが訪れる」

聖書  ルカによる福音書 19章1節~10節

説教者 茶屋 明郎牧師


降誕前第8主日

日時  10月31日(日)午前10時半~

説教題 「低きものが高くされる」

聖書  ルカによる福音書 18章9節~14節

説教者 茶屋 明郎牧師


降誕前第9主日

日時  10月24日(日)午前10時半~

説教題 「祈りの秘訣」

聖書  ルカによる福音書 18章1節~8節

説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第22主日

日時  10月17日(日)午前10時半~

説教題 「神の国の到来」

聖書  ルカによる福音書 17章20節~37節

説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第21主日

日時  10月10日(日)午前10時半~

説教題 「すべてを完成させる」

聖書  コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節

説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第20主日

日時  10月3日(日)午前10時半~

説教題 「神への感謝」

聖書  ルカによる福音書17章11節~19節

説教者 茶屋明郎牧師

 


聖霊降臨節第19主日

日時  9月26日(日)午前10時半~

説教題 「福音に生きる」 聖書  

ガラテアの信徒への手紙 3章13節~14節

説教者 川本 良明牧師


聖霊降臨節第18主日

   日時  9月19日(日)午前10時半~

   説教題 「嵐の中で」

   聖書  マルコによる福音書 4章35節~41節

   説教者 奥園 淳牧師


聖霊降臨節第17主日

   日時  9月12日(日)午前10時半~

   説教題 「新しい契約」

   聖書  エレミヤ書 31章31節~34節

   説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第16主日

   日時  9月5日(日)午前10時半~

   説教題 「キリストに結ばれる」

   聖書  コロサイの信徒への手紙 2章6~19節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

 題:キリストに結ばれる  聖書:コロサイ書2:615

 

 信仰は、キリストに結ばれることであるから、実際にキリストに結ばれて歩みなさいとパウロは勧めています。

 

 キリストに結ばれて生きると言うことは、どういうことかというと、それは、溢れるばかりに感謝することであると教えています。すなわち、信仰によって、驚くような恵みを受けるから、奇跡的な良いことを受けることできるから、溢れるばかりの感謝が生まれると言うのです。

 

 驚くような恵みの一つが、神性にあずかれるようになり、新しく高く、尊く生まれ変わることが出来る事ことです。なぜかと言うと、それは、結ばれるキリストには、神性が満ち溢れているからであり、つながることによって、キリストの神性が信ずるものに注がれていくからであると教えています。

 

 神秘的で、神々しさがあり、ハッとするような輝きである神性は具体的にはどんなところで実現するのかというと、それは、仕える生き方によってである。つまり、イエスが、仕えられる人が偉いのではなく、仕える人が偉大な人であるという言葉によって教えられているとおりです。

 

 仕えることは、本当に簡単ではない。自分を捨て、自分よりも他者を優先し、犠牲が求められるから、仕えることは、難しいし、人間の業ではなく、神の業であるからということかもしれません。

 

 仕える生き方ができる神性を身に帯びることが出来るのは、古い自己に死んで、神に生きるものに造り替えられる信仰にしっかりと固く立つことであり、すぐに躓くような浅くではなく、深く掘って根を張るようにして、つまり、徹底的に自分に絶望し、赦しがなければ生きていけない、滅んでしまう自分であるという深い心をもって、キリストを受け入れ、信ずる信仰に生きることです。

 


聖霊降臨節第15主日

   日時  8月29日(日)午前10時半~

   説教題 「深い淵の底から」

   聖書  詩編130篇1節~8節

   説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第14主日

   日時  8月22日(日)午前10時半~

   説教題 「黒歴史が問うこと」

   聖書  出エジプト記 20章1節~3節

   説教者 奥園 淳牧師

 

  題:黒歴史が問うこと       出エジプト20章1~3節

私たちの属する日本基督教団は、第二次世界大戦中に国の政策に迎合していったという歩みがありました。当時は国家斉唱と宮城遥拝という国民儀礼があり、教団の教会の礼拝ではこの儀礼を日本の文化的行事と位置づけて行われていました。日本基督教団の歴史にはそういう闇の部分(黒歴史)があるのです。ところが当時、日本のキリスト者の中には国民儀礼に「否」というスタンスを貫き通して終戦を迎えた人もいたのです。大変厳しい時代にキリスト者として共に生きながら、一方では神以外のものを礼拝した人がおり、もう一方では主なる神以外のものを礼拝してはならないという信仰者としての立ち位置を貫いた人がいたのです。何故、こうも違った反応が現れたのでしょうか。私がこれについて思うことは、このように国家斉唱や宮城遥拝を礼拝の中で行うということは、ある日突然に起こった出来事ではなく、それまでのプロセスがあったように、そのような国策に迎合するか拒否するかという結果も、ある日突然現れたのではなく、やはりそこに至るプロセスがそれまでの信仰生活の中にあったのだということです。つまり日頃から主なる神以外のものを神としがちであったそれまでの信仰生活が、やがては礼拝の中でも天皇を賛美し皇居を拝むという結果へと至ったのであり、逆に日頃から主なる神以外、他に神はいないというそれまでのキリスト者としての信仰生活が、やがて礼拝の中で国家儀礼を求められても、「否」という信仰的選択に結びついていったということです。まさにそれは「小さいことに忠実な者は、大きなことにも忠実である」とイエスが言われた通りなのです。教団の黒歴史が今日の私たちに問うていることは、やがて来るかもしれない究極的な場面で「イエスは主である」と告白できるかということよりも、今日の日常生活における些細なことから全ての面において、「イエスは主である」との信仰告白がいかになされているのかということなのです。

 


聖霊降臨節第13主日

   日時  8月15日(日)午前10時半~

   説教題 「信仰者の心得」

   聖書  ルカ福音書 17章1節~10節

   説教者 茶屋明郎 牧師

 

  「信仰者の心得」 聖書:ルカ福音書17:110

 

 信仰者としての心得の中で、イエスは、赦しと信仰と奉仕のことを取り上げられています。

 

 主イエスは、この時、躓きは避けられないから、あなた方も気をつけなさいと言われています。このように言われているのは、これらの心得は、ある意味においては難しく、できにくいが、ある意味においては、優しく、できやすいという思いが込められているように思えます。

 

 まずは、赦しの課題ですが、確かに赦すことは難しくあります。

 

例えば、メンタリストのDAIGOという人が語っていた生活保護を受けている人たちやホームレスの人たちに対するひどい差別的発言を聞いて、これはどうしても赦せないと思ったとしても、しかし、イエスは赦しなさい。確かに赦すことは難しいけれども、赦せるようになる道がある。それは、自分自身も許されないような大きな罪を犯している罪人であるけれども、神によって赦されている。今、生きているのは神の赦しの中にあるからであることに気づくことによってであると言われています。

 

 信仰の課題ですが、様々な矛盾や悪がある中で、見えない神を信ずることは難しい。難しくしている理由に、自分が神を信じ、愛するという自己中心の理解があり、そうではなくて、自分を捨てて、ただ神が私を信じ、愛してくださっていることを信じ、愛するという理解であり、神に委ねる思いに固く立つことによって、躓くことなく、信じぬくことが容易になると言われます。

 

 奉仕の課題ですが、おごらずに、高ぶらずに、また卑屈にならず、なすべきことをしたにすぎませんという気持ちで奉仕することは難しいが、主人のために生きている僕のように、神によって力も命も与えられて生かされている思いによって容易にできる。

 


聖霊降臨節第12主日

   日時  8月8日(日)午前10時半~

   説教題 「神の言葉の厳しさ」

   聖書  エレミヤ書 26章1節~19節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

  「神の言葉の厳しさ」 聖書:エレミヤ書26:1~19

 

 神の言葉を語るために遣わされる預言者において、本物かそれとも偽物かという問題が出てくるのは、神から遣わされていないのに、私は神に遣わされた。神はこのように言っているという人が多く現れて、人々を惑わしている現実があるからです。

 

 本物かどうかの問題の一つは、預言者自身が困惑し、悩み、葛藤することであり、つまり、自分が経験したさまざまな神との出会いや啓示は、本物か、錯覚ではないかということです。

 

 エレミヤはこの点を解決できていて、人々からの反撥や拒否そして嘲笑を受けても、それらを振り切って、神から遣わされているという思いに固く立って、ここに命を懸ける、そうではなく、預言者として行動しないことが禍であり、神に背くことになるという勇気ある、毅然とした、確固たる思いになっています。

 

 イスラエルの人たちがエレミヤを本物の預言者として認めず、非難し、いのちを奪おうとしたのは、エレミヤが彼らに悔い改めなければ滅ぼされるという厳しい神の言葉を語ったからでした。

 

 彼らは、小さな、とりえのない民族であったイスラエルが神の民として特別に愛されているという恵みを受けたのは、神の民としてふさわしい偉大な民族に代わってほしいという神の願いを理解できず、何をしても許されるという間違った理解をしていて、エレミヤを真の預言者として認められなかったのでした。

 

 預言者たちが、命の危機が晒される中で、神の厳しい言葉を命懸けで語ったのは、神の言葉にはこの世では得られない幸いがあると確信していたからでした。つまり、魂の平安という恵みであり、思い煩いに打ち勝ち、恐怖を乗り越え、それらのただ中において、平安と喜び、感謝に満たされ、今に集中して、一日一日を大事にして生きる力と命が与えられる幸いのことです。

 


聖霊降臨節第11主日

   日時  8月1日(日)午前10時半~

   説教題 「平和への願い」

   聖書  エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

  「平和への願い」 聖書:エフェソ書2:1322

 

 大概の人が平和を願っている。しかし、実際に戦争を経験していない状況の中で、どれだけ平和のことを考え、平和のために何かをしたいと思う人は少ないのではないか。

 

 戦争体験者や被爆者の人たち、そして戦争状態ではないけれども、さまざまな差別や偏見を受けて、人権や自由を奪われている人たちの戦争の悲惨さや平和の尊さを訴える言葉を心に刻み、どれだけ真剣に、自分のこととして受け止めて、平和への取り組みをしている人がどのくらいいるのだろうか。

 

 この平和聖日において呼びかけられている、「平和を作り出す人は幸いである」というイエスの言葉に従っていくために、心にとめるべき言葉が、「キリストは私たちの平和である」というパウロの言葉です。

 

 キリストによって平和への願いが生まれ、平和のために働く新しい人に創造されると言われていることの理由の一つが、キリストにより、敵意という隔ての壁を取り除くことが出来るからです。

 

 敵意という隔ての壁を生み出す原因の一つが違いがあることです。つまり、みな同じではなく、いろいろと違っているのは、違いを乗り越えて、認め合い、尊重し合い、ひとつになる愛の課題を担うためであるのに、それに気づかずに、違いが自分を絶対化する根拠になり、優劣を競い、貴賤の判断になり、不信や排除、差別や偏見、反撥や争いを引き起こしている。

 

 この敵意を取り除くことが出来るのが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、罪が裁かれ、贖われ、赦され、みな神にあって尊い存在として、受け入れられ、一つになっているという神の国が実現していることによってです。

 

 このことを信ずる人が平和を実現できる新しい人になれる。

 


聖霊降臨節第10主日

   日時  7月25日(日)午前10時半~

   説教題 「小事に忠実になる」

   聖書  ルカによる福音書 16章1節~13節

   説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第9主日

   日時  7月18日(日)午前10時半~

   説教題 「神の配慮」

   聖書  フィリピの信徒への手紙 4章15節~20節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

 「神の配慮」   聖書: フィリピ書415節~20

 

 大リーガーで活躍している大谷選手への称賛の理由の一つに、優れた能力を持つ人が陥りやすい傲慢な心がなく、偉ぶらない、謙虚な、さわやかな人間性があります。

 

 傲慢にならずに、感謝の心を忘れずに、謙虚な人になるという課題の答えが、傲慢な人間から、感謝の心をもつ、謙虚な人間に生まれ変わったパウロの存在によって示されています

 

 福音宣教の中で霊的な糧を与えるパウロと、パウロの伝道を物質的な面で支えるフィリピ教会の人たちとのやり取りが、香ばしい香りであり、神も喜んでいることだと伝えています。

 

 この言葉には、パウロも、フィリピ教会の人たちも、与えたり、受けたりする、やり取りの中で、高ぶったり、また卑屈になったりしないで、そうではなくて、お互いが感謝しながら、謙虚になって、支え合っている姿が示されています。

 

 どうして、こんな素晴らしい、憧れる、理想的なことが起きているのかというと、それは、それぞれが神の配慮の中での出来事として理解していたからです。

 

神の配慮として理解することは、このやりとりを、神を通して理解し、神の業として用いられている働きとして理解し、持っているものは、他者のために用いるために預かっているということです。また、与える働きが神からのご褒美を受けられ、不安や恐れから解放されて、失望しないで、安心して生きて行くために必要な恵みが得られると確信できるようになり、そのことによって奢らずに、謙虚になって、感謝を持って生きることが出来る。

 

 ここに固く立つことが出来るためには、イエス・キリストの十字架の苦難と死の出来事によって、神に赦され、愛され、神が共にいるという信仰に生きることが必要になる。

 


聖霊降臨節第8主日

   日時  7月11日(日)午前10時半~

   説教題 「預言者の苦悩」

   聖書  エレミヤ書 20章7節~18節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

 「預言者の苦悩」   聖書: エレミヤ書207節~18

 

 神の言葉を語る使命に生きる預言者は、特別な存在であり、英雄的な人間であるとイメージがあるかもしれませんが、エレミヤの苦悩を通して、そのイメージが崩れ、預言者も同じ人間であり、弱さや愚かさそして罪人であることが教えられています。

 

 預言者エレミヤが苦しんだ理由の一つは、神に背き、他の神々を信頼するようになって、罪を犯したイスラエル人たちに向けられた神の厳しい裁きのメッセージでした。

 

 エレミヤから、悔い改めなければ、国が亡びるという警告を受けてもイスラエルの人たちは従うことはせずに、むしろエレミヤに反発し、攻撃し、迫害し、そのためにエレミヤは命の危機に晒され、不安や恐怖を感じ、絶望したのでした。

 

 エレミヤからすれば、預言者になったのは、自分が望んだわけではなく、そうではなく、神によって強制されていたのでした。

 

そのために、苦悩も人一番強く感じていたに違いないし、彼は耐えられずに、預言者として生きることをやめたいと願い、必死になって神に祈り、格闘したのでした。しかし、彼は、神には勝てず、預言者をやめることはできないし、逃れられないし、その使命に生きるしかないと思わさせられた。

 

 しかし、エレミヤは、神に祈り、神と格闘していく中で、変えられていきます。大いなる力をもっておられる生ける神が共におられ、支え、守り、導き、預言者として生きるのに必要なことは与えられるという確信が得られていきます。

 

 何事もなく安全であることよりも、苦悩があることが、その分、神との関りが密になり、濃ゆくなり、神の豊かな恵みである偉大さと尊さそして生き生きとした命がより多く与えられ、勇気ある素晴らしい預言者に変えられていきました。

 


聖霊降臨節第7主日

   日時  7月4日(日)午前10時半~

   説教題 「人を捜し求める神」

   聖書  ルカによる福音書 15章1節~10節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

 「人を捜し求める神」   聖書:ルカ福音書151節~10節 

 当時の宗教指導者であった律法学者たちが、先生らしい先生、牧師らしい牧師であると自認したのと違って、イエスは、先生らしくないし、牧師らしくないと評価され、非難されていた。

 

 その評価の根拠は、イエスが徴税人や罪びとと言われている人たちが大好きであり、共に生き、一緒に食事などをしていたところであった。

 

 このことを非難されたとき、イエスは、反論を試みられています。それは、迷子になった一匹の羊や亡くした銀貨一枚を、百匹の中の一匹であっても、十枚の中の一枚であっても、見つかるまで、必死になって「どこにいるのか」と声をかけて捜し求め、見つかったら、心から喜ぶというたとえ話によってでした。

 

 イエスは、神は、羊飼いや銀貨の持ち主と同じように、人間を捜し求めるおられる方である。だから私も罪人と言われている人たちを受け入れ、寄り添い、共に生きていると言われています。

 

 イエスは、神が人間を見つかるまで探し求めておられるのは、人間はご自分がお造りになった存在であり、ご自分のものであり、皆同じひとりの人間であり、皆なくてはならない、欠けてはならない、大切な、かけがえのない存在であると考えているからであると教えています。

 

私たちが神から離れ、神の愛や自分の尊厳さが分からなくなり、孤独を感じ、自暴自棄になり、愛の心を失っているのなら、神は、アダムと同じように、私たちにも、そこは本来あなたがいるところではないから、そこを出なさい。囚われている思いを捨てて、自由になって、私のところに、私の愛の中にしつかりと留まっていなさい。そこがあなたのいるべき場所であるという思いを込めて、「どこにいるのか」と呼び掛けているに違いありません。

 


聖霊降臨節第6主日

   日時  6月27日(日)午前10時半~

   説教題 「狭き門から入れ」

   聖書  ルカによる福音書 13章22節~30節

   説教者 茶屋 明郎牧師


聖霊降臨節第5主日

   日時  6月20日(日)午前10時半~

   説教題 「苦しい時こそ」

   聖書  詩編  50篇15節

   説教者 奥園 淳牧師

 

 「苦しい時こそ」   聖書:詩編5015節 

 

         説教者  奥園 淳牧師

 

私たちの人生には様々な苦境がありますが、そのような中で大切なことは、まず祈るということです。今日の箇所が聖書協会共同訳聖書ではこう記されています。「苦難の日には、私に呼びかけよ。私はあなたを助け出し、あなたは私を崇めるであろう」。「私に呼びかけよ」ということ、主の名を呼ぶということは、神様に向かって祈りなさいということです。私たちが苦しい時を過ごす中で、神様はご自身がその中で呼ばれることを願っておられるのです。試練の中にいるからこそ、全能なる主を信頼し、また期待して、私たちは祈り続けねばならないのです。

 

そして苦しい時こそ、神様の約束の言葉に立ち続けるということが大切です。苦しい日々の先には何があるのでしょうか?今日の箇所は、そのことを明確に告げています。「お前はわたしの栄光を輝かすであろう」と。それはつまり苦しみの先に待っているのは、神様をほめたたえる日が待っている、ということです。試練を乗り越えた暁に、「こんな苦しい目にあって、私はとても不幸でした」と愚痴をこぼすのではなくて、「私に神様は良い事を為して下さいました」と言えるというのは、とても素晴らしいことではないでしょうか。苦しい時期にも意味があることを知ることが出来るから、そう言えるのです。それは苦しみの最中に置かれている人にとっては、希望を与えられる嬉しい結末だと思います。苦しみの時を歩み進めながら、重荷を負って進んでいく私たちの歩みというのは、神様の栄光を輝かす日に向かっています。「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。」今日のこの御言葉が、これからの皆さんの歩みをたえず励まし、また導いて下さることを願っています。

 


聖霊降臨節第4主日 日時  6月13日(日)午前10時半~ 説教題 「私の手の中にある」 聖書  エレミヤ書  18章1節~17節 説教者 茶屋明郎牧師

 

 「私の手の中にある」   聖書:エレミヤ書18:117

 

 信仰は神を信ずることであり、つまり、神のみ手の中にあること、神の愛の支配の中で生かされていること、神が共にいることを信頼し、ゆだねることです。

 

 信じ、信頼し、ゆだねられるならば、コロナ禍などの危機や苦難においても、忍耐でき、乗り越えられないような試練はないし、必ず逃れる道も備えられると言う確信が得られ、安心や癒し、喜びと希望が生まれるはずです。

 

 エレミヤは、神から、人間が神の手の中にあることが、創造主なる神によって造られているからであることを示されるために陶工の家に導かれます、

 

 エレミヤが、陶工が自由に、良いものを造り上げるために、心と魂を込めて何回も繰り返して造り上げているのを見ていると、神は、エレミヤに対して、わたしがこれと同じことができないか、できるのだ、このようにして人間は神によって造られて、手の中にあるし、尊い存在として、価値あるものとして、「それぞれ違って、みないい」という金子みすゞの詩のように、また、パウロが言うように、良き業を行う者として造られ、守られているということを教えられます。

 

 生きることは、神に造られ、み手の中にあり、愛の支配に中に生かされ、かけがえのない存在であることを知ること、であると理解することを難しくさせている理由には、考え方や見方そして判断がゆがむからであると言えるし、ゆがむのは、なんでも人間や自分の力によってうまくできる思いがあるから。

 

 このようにならないためには、悔い改めをし、幼子のように、謙虚になることが必要になる。悔い改め、謙虚にさせられることの一つが試練であり、苦難である。

 


聖霊降臨節第3主日 日時  6月6日(日)午前10時半~ 説教題 「対処する秘訣」 聖書  フィリピの信徒への手紙  4章10節~14節 説教者 茶屋明郎牧師

 

 「対処する秘訣」   聖書:フィリピ書4:1014

 

 様々な困難や危機に遭遇した時に、それらの外側の環境に左右されずに、内的自由を保って、足ることを知り、満足する秘訣に、精神力でもって切り開いていくことを考えて、自分の心や気持ちに言い聞かせるようにして必死に耐えることや、「武士は食わねど高楊枝」という言葉にあるように、空腹さを見せないように、さも満腹しているようにして、ただ我慢して生きるというのがある。

 

 パウロは、満足する秘訣として挙げているのは、精神力などの自力に頼らずに、他力によって、自分を強めてくださるキリストの神によって、つまり、信仰によってと語っている。
 パウロの心には、自力からくる、何か重たく、暗く、満たされていないようなものではなく、自然で、無理にではなくて、明るくて、満たされて、喜んでいるのが感じられる。

 

 パウロが、強めてくださる神によって、授かっている秘訣がいついかなる場合にも対処できると言っている言葉には、その対処がより良く、正しく、豊かに行うことができるものであるという思いが込められていると理解できる。

 

 より正しく、正しく、豊かな対処というのは、様々な貧しさや空腹そして不足があっても、卑下したり、自信を無くたり、価値がないと思ったりせず、人の痛みが分かり、一人では生きていけないことに気づき、また、豊かな暮らしがあったとしても、傲慢になったり、他者を見下げたり、他者への関心をなくすようなことにならずに、謙虚になり、他者のために使うために与えられていることに気づくことである。

 

 正しく、豊かに生きる秘訣を与える神を信ずるためには、自分の弱さや罪深さそして無力さへの気づきが必要になる。

 


聖霊降臨節第2主日 日時  5月30日(日)午前10時半~ 説教題 「人智を超えた平安」 聖書  フィリピの信徒への手紙  4章2節~9節 説教者 茶屋明郎牧師

 

 「人智を超えた平安」   聖書:フィリピ書4:29

 

 生きることは喜びであり、喜びのない人生には命がない。ただ喜びは、喜べる条件が整っているから喜べるのではない。問題は喜ぶ力を持っているかどうかである。

 

 パウロは、喜ぶ力を確かに持っている。なぜかと言うと。彼は喜ぶ条件が全くなく、むしろこれほどの悲しみや苦しみ、そして絶望はありえないと思える命の危機に晒されている牢獄に置かれるただ中で、喜んでいるからです。

 

 彼には、岩の上に生きる土台を固く据え、極度の緊張のただ中で、究極の平安を持ち、途方に暮れるような状況のただ中で、望みを失わずに、万事休すともいわず、いや大丈夫だ、光があると思い、危機から自由になっている姿がある。

 

 彼はどうしてこのように固く立ち、自由になり、希望に生き、喜んでいることができたのか。それは、あらゆる人智を超えた神の平安に守られているという自覚と確信があったからでした。つまり、人間の力や理性を超えた、普通ではない、特別な、驚くような神の平安にすべてをゆだねて、自分の力や努力に頼らずに、神が与える平安に固くたつことができたから、喜べないようなときにも、喜ぶことができたのでした。

 

 パウロは、神の平安に守られて、喜ぶことができることがどんなに確かなことであり、すべての人にも実現する根拠として説明しているのは、それはキリストを通して実現しているからであると語り、だから喜びなさいとと訴えています。

 

 意見の食い違いによって対立し、寛容な心を失っている二人の婦人に対して、キリストにあって、キリストの愛と赦しによって生かされている思い同じように持ちなさい。そうすれば喜びに生き、寛容な心が生まれ、共に生きられると呼びかけます。

 


聖霊降臨節第1主日 日時  5月23日(日)午前10時半~ 説教題 「教会の誕生」 聖書  コリントへの信徒への手紙一  12章12節~26節 説教者 茶屋明郎牧師

 

 「教会の誕生」   聖書:フィリピ書4:29

 

 私たちは社会の中で生き、様々な集まりに参加して生活しています。その集まりには、さまざまな違った役割があり、その中での課題が、一つになれるか、統一できるか、つまり多様性の一致という課題です。

 

 一つになることができなければ、その集団は分裂や排除が起こり、崩壊し、ダメになります。その原因の一つが自分の役割を絶対化して、自分が中心であると高ぶって、他者の役割を軽んじたり、反対に自分は何の役にも立っていないと卑下し、他者をねたんだりすることです。

 

 この分裂し、崩壊する危機は、あらゆる集団に起こりうることであり、教会も例外ではありません。残念ながら、教会においても、福音に対する理解の違いが分裂の火種になっています。

 

 ただ教会とほかの集団との違いは、教会には、人間の思いや考えを超えて、神がおられ、神の働きかけを受けていることであり、このことが対立や分裂を乗り越えて、一つになっていく道が開かれるということです。

 

 このことを証ししているのが、初代教会の誕生の出来事です。つまり、弟子たちがイエスの約束を信じて心を合わせて祈っている時に、炎のような形をした聖霊が降りてきて、弟子たちに注がれ、一つの共同体がうまれ、教会が誕生しています。

 

 パウロは、教会の誕生の力である聖霊は、手や足など違った部分が大切な役割を果たして、身体が成り立っているのと同じように、神の憐れみと恵みによって、招かれて、皆がキリストの身体の一つの部分であり、尊い存在であることを気づかせて、おごらずに、卑下せずに、自分らしく、他者と共に生きる愛の力を与えます。これが、教会が真に誕生することです。

 


復活節第7主日

   日時  5月16日(日)午前10時半~

   説教題 「私たちの砦」

   聖書  エレミヤ書 16章1節~21節

   説教者 茶屋明郎牧師

 

 「私たちの砦」   聖書:エレミヤ書16:121

 

 エレミヤは、神には二つの顔がある。災いと救いの両方をもたらす存在であることを教えています。

 

 一つは、他の国々によって襲われ、ひどい目に合い、徹底的に罰せられることであり、もう一つは、生きる力となり、砦となり、苦難が襲う時の逃れ場になって、救うということです。

 

 このことから、考えさせられることは、神を敵にすることほど、どんなに恐ろしいことはないし、逆に神を味方にすることほど、どんなに頼りになる存在は他にはいない。

 

 神はなぜ、イスラエルの民を厳しく罰せられると警告しているのかというと、それは、信じなかったから。偽りで、空しく、無益な他の神々に従い、仕えていたからでした。生きる力となり、砦となり、逃れ場になって、安心で、安全で、平和の中で生きることができる神を捨てたために招いた、自ら招いた災いであり、神からの直接的な災いではないという理解です。

 

 このことは、私たちに信ずることがどんなに難しいことであるかを教え、逆に信ずるだけでいいし、ただ信ずるだけでどんなに素晴らしい恵みが得られるかを改めて気づかされます。

 

 エレミヤは、これらのことを語った後、神の並みならぬ決意を、つまり、神は力強い業を行って、神が大いなる存在であることを明らかにし、悩まずにすぐに信ずることかできるようにするという神の約束を伝えています。

 

 その約束の預言が、救い主として遣わされ、様々な困難に遭遇して、いろいろと悩み、虚しさを感じ、自分の尊厳さを失って、自信を無くし、絶望している人たちを赦し、愛し、救って、安心と安らぎ、そして生きる力を与えられたイエスによって成就されていることを信ずるのがキリスト教の信仰です。

 


復活節第6主日

   日時  5月9日(日)午前10時半~

   説教題 「神の国のたとえ」

   聖書  ルカによる福音書 13章18節~21節

   説教者 茶屋明郎牧師

 

 「神の国のたとえ」   聖書:ルカ福音書13:1821

 

 イエスは、神の国について、つまり神の愛の支配によって生まれている神の国についての説明を分かりやすく、理解しやすくなるために、いろいろな譬えを使って教えておられます。

 

 まず一つは、からし種のたとえで、「人がそれを取って蒔くと、成長して木になり、その枝に空の鳥が巣を作る」というもので、このたとえで、イエスは神の国はすべての人に開かれている。太陽が正しい人にも悪い人にも昇っているように、ここには差別はないし、みな平等であり、人を分け隔てはなさらないと教えています。このことを身をもって示されているのが、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉どおりに生きられ、またいろんなことで差別や偏見を持たれ、弱い立場に置かれている人たちに積極的になって寄り添い、共に生きる姿です。

 

 イエスがこのように生きられたのは、この当時の社会が、神の国に入り、救われるのは、律法を守っている良い人や正しい人達であると考えていました。この考えは間違っていることを示すためでした。

 

 もう一つのたとえは、パン種のたとえで、「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜるとやがて全体が膨れる」というもので、このたとえで、イエスは、全体が自然と膨らむのは、パン種に命があるからである。これと神の国は同じ、神の国には神の命が働いていて、無から有を生じさせ、不可能を可能にし、死んだ者に命を与えられる神の大いなる力が働いているから、人間の力を借りずに、ましてやどんなに反撃などがあっても、それらに左右されずに、救いと安心と希望を与える神の国は必ず実現していく。だから、ここにこそ真の希望があることを教えておられます。

 


 

 「み心を行う」   聖書:マタイ福音書6:915

 

  御心、つまり神の心や思いそして考えとは、どんなものであるのか。それは、豊かさであり、尊さであり、偉大さであり、愛の心であると言えるし、パウロの言葉を引用して言えば、それは、正義、平和、喜びになります。

 

 イエスは私たちに「御心が行われますように祈りなさい」と勧めています。このことは私たちにとってありがたく、慰めとなり、希望となります。特に、様々な困難や危機に直面し、嘆き悲しみ、不安や恐れを感じ、絶望の淵に立たされている人にとっては、なおさらのこと、ありがたく、幸いに感じるに違いありません。

 

 私たちがさまざまな苦難や試練に立たされた時、それを宿命や運命として受け止めて、これ以上なにも変わらない、仕方がない、諦めるしかないとう気持ちになり、なんの慰めや希望を見出せずに生きる人も少なくありません。

 

 しかし、この祈りは、諦めなくていいんだ、このままで終わることはないんだ、そうではなくて、何か良いものが生まれるのだ、立ち上がっていく力が得られるのだ、ゆだねればよいのだ、そうすれば安心できることが生まれるという希望を与えてくれます。

 

 イエスがこの祈りを勧めているのは、神は必ず御心を実現してくださるし、実現させる力をもっておられる大いなる、全能の、創造主なる、生きて働いている方であり、絶望的に見える世界の中でも、支配している方であるという確信があったからです。

 

 イエスはご自分が生ける神と出会い、圧倒的な力の中で支えられ、顧みられていることを経験され、神はすべて人の愛と憐れみに溢れている神であり、私たち人間が苦しんだり、絶望している姿を自分のことのように受け止めて、安心して生けるように全力を尽くしておられることを確信しておられたからでした。

 


        復活節第5主日

   日時  5月2日(日)午前10時半~

   説教題 「み心を行う」

   聖書  ルカによる福音書 6章9節~15節

   説教者 茶屋 明郎牧師


復活節第4主日

   日時  4月25日(日)午前10時半~

   説教題 「神の国が来る」

   聖書  ルカによる福音書 6章9節~15節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

 「神の国が来る」   聖書:マタイ福音書6:915

 

 イエスは、み国が来ますようにと祈りなさいと勧めておられるのは、この祈りには私たち人間の希望がある。幸いがある。さまざまな不安から恐れから解放されて、安心して、慰められ、望みに生きることができる確信があったからに違いありません。

 

み国、つまり神の国とは、神の支配のことであり、この世を、私たちを、私たちの生活を、人間の歴史を支配しているのは、運命や宿命ではなく、ましてや人間の力や私たち自身でもない。これらに頼っても、真の望みも幸いも得られない。それどころか破綻してします。真に支配しているのは生ける神であることが示されている。

 

イエスは、生ける神の支配がすでに私を通して実現している。

 

そのことは、例えば、悪霊などの病をいやす奇跡の業によって明らかになっているし、私自身が生ける神に出会い、圧倒的な、大いなる愛の力に触れ、支えられ、生かされていることを実感している。

 

 神は、真に畏れるべき方であり、無から有を生じさせ、不可能を可能にできる、死んだ者を復活させ、死を滅ぼし、死の力に勝利されている創造主なる大いなる力をもっておられる方であり、褒めたたえられるべき唯一の方である。この大いなる神の愛の力によって私たちは支配され、見守られ、導かれている。

 

 この大いなる方が支配している神の国があなた方の間にある。つまり、神の国があなた方に一方的な形で、贈り物として、やってきている。このことが実際にあなた方自身において、実現し、真の望みと幸いが実現し、不安や恐れから解放されて、安心して生きていくことが実現していくためには、このことを幼な子のようになって信じて、祈ることであるとイエスは勧めています。

 


復活節第3主日

   日時  4月18日(日)午前10時半~

   説教題 「ソロモンの苦悩」

   聖書  ルカによる福音書 19章9節~10節

                            コヘレトの言葉12章1節~2節

   説教者 川本 良明牧師


復活節第2主日

   日時  4月11日(日)午前10時半~

   説教題 「御名を崇める」

   聖書  マタイによる福音書 6章9節~15節

   説教者 茶屋 明郎牧師

 

 「御名を崇める」 マタイ福音書6:915

 

 祈りは誰かのために願うことではなくて、誰に向かって祈るかが大事であり、祈りが信仰の姿であり、祈らない信仰は神を信頼し、信じているとは言えません。

 

 祈りは神との対話であり、精神的に神とつながることであり、生きる力が与えられ、癒され、望みが生まれ、変えさせられます。

 

 イエスが、祈ることを知らない弟子たちに、祈ることの大切さや、本当の祈りについて教えられているのが主の祈り、です

 

 イエスは、祈る相手である神は父のような存在であり、放蕩息子のたとえ話に出ているように、子供がより良く生きていけるために、最善を尽くされる、愛と慈しみに溢れている方であると教えています。

 

 まず最初に教えられている祈りが、「御名が崇められるように」となっている理由は、ブドウの木のたとえ話にあるように、命や力そして愛などの生きていくために必要な良きものはすべて神のところにあり、神から与えられるものであるから、まず真っ先に神を賛美することが大切であることが示されています。

 

 このことを理解することは、イエスに「永遠の命を得るためにどんなよいことをすればよいのか」と尋ねた、自分の力でなんでもできると思っている青年にとっては、他者に頼ることは本当に難しくあり、神に頼り、つながっていてこそ自分の力を最大限生かすことができることが分からないのかもしれません。

 

 放蕩息子のたとえ話に出てくる青年は、どん底に突き落とされる中で、本心に立ち返り、父の下でこそよりよく生きていけることを信じて、悔い改めて、厳しい困難の状態の中でも、父の愛と赦しと支えを信じて、父よと信頼し、叫ぶことが御名を崇めることになります。

 


       復活節第1主日

   日時  4月4日(日)午前10時半~

   説教題 「命の勝利」

   聖書  ルカによる福音書 24章1節~12節

   説教者 茶屋 明郎牧師


 

 「命の勝利」 ルカ福音書24:112

 

 「夜の闇は続かない。明日は必ずやってくる」という言葉は心情的に励ます力になりうると言えますが、しかし苦難に耐えて、望みに生きる確かな根拠にはなりえないのではないか。

 

 復活の出来事は、イエスの弟子たちが証しているように、絶望から立ち上がらせ、臆病な、弱気な思いを乗り越えて、勇気と生き生きとした生き方を与える確かな根拠であると言えます。

 

 復活は蘇生することではないし、復帰するようなことでもありません。新しく変わること、つまり新生することであり、死の力が滅ぼされて、命が勝利し、永遠の命に生きるということです。

 

 キリストの復活によってキリスト教が誕生し、教会が生まれていますし、復活は、見えるこの世だけではないし、見えない世界があり、見える世界は見えない世界によって存在していること、私たちは一人では生きていないし、神によって支えられ、生かされて生きているし、一人ではなく、神が共にいるのが私たちの人生であることが確かなこと、真理であることが示されています。

 

 死んだ者が新しい命に生きるということは、すごいことであり、恐ろしく、信じがたいために、様々な解釈がある。つまり、神話説、仮死説、盗難説、幻覚説、作り話などです。

 

 このような解釈は、まったく生まれ変わって、勇気を出して、生き生きとして、弟子たちが命がけで復活を述べ伝えている事実を納得させられないし、実際に復活したイエスに出会ったという証に信ぴょう性があると言える。
 キリストの復活を無理して、強制的に信ずることなく、自然とおのずと信じられるようになれる道がある。それは、まずイエスの十字架の死によって赦されていることを信じ、神の救いに預かり、神につながり、神の愛の力に触れるという信仰によってです。

 


  受難節第6主日 棕櫚の主日

   日時  3月28日(日)午前10時半~

   説教題 「イエスの死」

   聖書  ルカによる福音書 23章44節~49節

   説教者 茶屋 明郎牧師


  受難節第5主日

   日時  3月21日(日)午前10時半~

   説教題 「十字架上のイエス」

   聖書  ルカによる福音書 23章32節~43節

   説教者 茶屋 明郎牧師


 受難節第4主日

   日時  3月14日(日)午前10時半~

   説教題 「御心のままに」

   聖書  ルカによる福音書 22章39節~46節

   説教者 茶屋 明郎牧師


        受難節第3主日

   日時  3月7日(日)午前10時半~

   説教題 「時を見分ける」

   聖書  ルカによる福音書 12章54節~56節

   説教者 茶屋 明郎牧師


受難節第2主日

   日時  2月28日(日)午前10時半~

   説教題 「分裂か平和か」

   聖書  ルカによる福音書 12章49節~53節

   説教者 茶屋 明郎牧師


受難節第1主日

   日時  2月21日(日)午前10時半~

   説教題 「サマリアの女とイエスの真実」

   聖書  ヨハネによる福音書 4章6節~30節

   説教者 川本 良明牧師


降誕節第8主日

日時  2月14日(日)午前10時半~

説教題 「待ち望む」

聖書  エレミヤ書 14章1節~9、19~22節

説教者 茶屋 明郎牧師


 

2021年2月7日

    「目標を目指して」  フィリピの信徒への手紙 3:1216

 

 パウロは、フィリピ教会の人たちを思い浮かべる中で、少し気になる人たちがいました。それは、すでに信仰が完全なものになった。すでに救いにおいて得ることを得ることができたと満足している人たちでした。

 

 パウロは、この人たちを意識しながら、私はこれと違う考えである。私はすでに捕らえたとは思っていないし、何とかして捕らえようと努めていると語っています。

 

パウロは、神がお与えになる賞である救い、つまり、キリストを知ること、キリストの恵みに預かること、キリストの命に預かるという神からのご褒美を得るために、目標を目指してひたすら走っていると強調しています。

 

パウロがわざわざこのことを取り上げて言及しているのには、彼らの信仰理解や信仰生活に問題を感じていたからに違いないし、満足していて、活気がなくなり、独りよがりになっていたり、傲慢になっていて、キリストにおいて一つになるという課題が崩れるなどの悪い影響を教会に与えていたのを危惧していたからではないか。

 

 もう一つは、パウロが、自分の信仰は完全ではないし、途上にあり、まだ理解しなければならないことがたくさんあるし、キリストの豊かな愛と恵みは限りないものであるし、無限の豊かさや深さや高みがあるものであり、すぐに、簡単にすべてを受けることができない事柄であるという理解があったに違いありません。

 

 驚くことは、数多くの教会を立ち上げ、数多くの人々を救いに導き、キリスト教を普遍的な宗教に広めた最大の功労者であり、一流の伝道者であるパウロが完全ではないし、道半ばにあり、まだ成長しなければならないと思っていることです。この謙虚さが一流であること、真の成熟であり、真の完全さであることを証ししています。

 


 2021年1月31日

     「目を覚ましていなさい」  ルカ福音書 12:3548

 

 私たちの生き方が問われ、その責任が問われ、場合によっては、罰を受けることがある。だから目を覚ましていなさいと言われる。

 

 この世に生を受け、存在しているのは、自らの意思ではなく、責任がないと思っている人にとっては、この問いかけは腑に落ちないものになるところがあるのかもしれません。

 

 ちゃんと生きているか、与えられている命などの財産をちゃんと管理しているのか、このことが問われることが思いがけないときにやってくるから、眠り込むことなく、目を覚まして、ほめられるような生き方をしなさいという要望は、何か管理されているみたいで、窮屈に感じ、自分の良心や理性を信頼していないように受け止め、怒りを感じ、問う権利があるのかと思う人もいるに違いありません。

 

 考えさせられるのは、この問いかけを行っているのは、キリスト・イエスであるから、しっかりと考えざるを得なくなる。つまり、あなた方の良心や理性はしっかりと働いているのか、万全なのか、理性が曇ったり、良心が麻痺しているような、弱く、愚かな、罪深い姿は見られないのかという問いに自信をもって答えられない自分の真実の姿に気づかされる人もいるのではないか。

 

 主イエスはこのことをはっきりと自覚させるために、主人と僕のたとえ話をされて、主人の管理と配慮の中で、よりよく生きて生ける僕こそあなた方ではないか。主人こそ、これからやってきて、生き方を問われる、神から遣わされた救い主である。生き方を問う権威を持つ救い主が来るから目を覚ましていなさいと問いかけます。

 

目を覚まし、悔い改め、仰ぎ、待ち望む信仰によって、私たち人間は生ける神の愛の支配の下で、赦され、生かされている僕のような存在であることに気づき、その中で、真に自由になり、より良く、豊かに、尊く、偉大に生きることができると問いかけます。

 


2021年1月24日

  「神との論争」   エレミヤ書 12:16

 

エレミヤは、神との論争の中で、「神に逆らう者が栄え、安穏に過ごしているのは、なぜですか?」と問い、神はこの問に直接答えておられません。これはなぜであるかという疑問が生まれます。

 

 一つの理由は、エレミヤが同郷の人たちから命を狙われるという大変な危機にさらされる中で、なぜと問うこと自体は大切なことであり、赦されることであるが、しかしこの問いは益にならないものであり、また神に自分を合わせるのではなく、自分に神を合わせようとする不信仰から出ているものであり、妬みや憎しみからくる感情的な怒りであることを見られたからに違いありません。

 

 もう一つは、神に逆らう者はすでに裁かれているからです。つまり、信ずることによって与えられる神の豊かな愛と恵みが得られないことであり、神の愛と恵みによって与えられる喜びや平安そして希望、神の命が得られないという裁きを受けているからです。

 

 神がエレミヤの問に直接答えられなかった最大の理由は、5節の神からの言葉に示されているように、エレミヤが預言者としてまだ未熟であり、このままでは、この先直面させられる厳しい試練を乗り越えることができなきなくなり、使命をはたすことができないことを心配されて、そのことを一番に伝え、エレミヤに気づいてほしかったからです。

 

 エレミヤがこの後、見違えるように生まれ変わりました。それは、神からの言葉をしっかりと受け止め、自分の弱さ、愚かさ、罪深さに気づかされ、神の愛と赦しがなければ生きていけないと悔い改め、神の愛の支配に生かされ、生ける神が共におられる信仰に固く立つことができ、それらよって力が与えられ、生かされ、命の危機に晒さられる厳しい試練に直面しても、逃げずに、勇気をもって預言者の使命に生き、全うすることができたからでした。

 


2021年1月17日

   「神との契約」  エレミヤ書11章1節~16節

  神がイスラエルに対して、「私は、彼らに災いを下す」という厳しい、怒りの言葉が発せられているのは、イスラエルの人たちが神と結んでいた契約を破ったからでした。

 

 神が一方的な恵みの中で、イスラエルをエジプトの奴隷から解放し、神の栄光を表す使命に生きる神の民とし、見守り、支え、乳と蜜の流れる地に導くという誓いの約束をし、イスラエルの人たちはその恵みに応答する生き方として示された十戒の戒めを守っていくという契約を破ったからでした。

 

 神の怒りの言葉で注目したいのは、契約を破棄することは言われていないことと、繰り返し戒めていることであり、このことから言えることは、神は決して彼らを断罪しているのではなくて、そうではなくて、悔い改めて、他の偶像なる神々を捨てて、ご自分のところに返ってくることを忍耐して待っているということです。

 

 忍耐して待つ思いは、神のいつくしみと愛と赦しの現れであり、なんの助ける力もなく、いのちのない偶像なる神に従っていくなら、ダメになり、堕落することは明らかであり、そのことを心配し、そうなってほしくないという切実な、深い憐れみから厳しい言葉が出ていることであり、災いなどの厳しい言葉は本音ではなく、単なる警告であり、神は誓いの約束を永遠に守られる意志の表れです。

 

 神の慈しみは、主イエスの十字架の苦難と死の出来事によって確かなこととして証しされているし、このような中で、さまざまな困難や試練は、愛の試練であり、愛のムチであり、熟練への成長や使命感などの何か豊かで、良きものを生み出すものであるという理解が生まれてくるに違いありません。

 

 神の愛の支配の中で守られ、生かされているという信仰は、恐れを取り除き、喜びと安心と希望へと導く。

 


2021年1月10日の礼拝です。

   説教題 「神の前に豊かになる」

   聖書  ルカによる福音書 12章13節~21節

   説教者 茶屋 明郎牧師


若松教会、2021年1月3日の聖日礼拝です。説教者は茶屋明郎牧師、説教題は「かけがいのないこと」です。


2021年1月1日、若松キリスト教連合は、合同新年礼拝を若松教会で行いました。説教者は、若松教会の茶屋明郎牧師、説教題は「恵の年に」でした。


 

 2021年3月日

    「イエスの死」 ルカ福音書23:4449

 

 死はすべての人にやってくるものであり、すべての人が例外なく、皆死を迎えなければなりません。辛く、悲しく、恐ろしく感じる死をどのように迎えるかが最後の大仕事になります。

 

 不安や恐れから解放され、静かに、穏やかに、感謝して最後を迎えることができるかどうかという課題を解決するための一つの手立てが委ねることであることが、イエスの死を通して教えられています。

 

 イエスは最後の息を引き取り、死んでいかれる時に、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」という言葉を大声で叫ばれています。

 

 濡れ衣を着せられ、みんなから罵倒され、見捨てら、神にでさえ見捨てられているような、絶望的な状態に置かれ、まさに呪われている死を迎えている中で、恐れずに、諦めでもなく、そうではなく、信頼の気持ちをもって、白紙委任するような、すべてお任せしますという思いをもって、ゆだねておられます。

 

 イエスは、一番委ねられることができない状態であるにも関わらず、ゆだねられているし、神が共にいることが一番思えないに状態にも関わらず、神が共にいる確信をもっておられるし、生ける神が支配していることが一番考えられない様態であるにも関わらず、神の支配の中にいることを固く信じています。

 

 そこに居合わせた百人隊長は、このイエスの姿に驚き、衝撃を受け、この人は悪い人でもなく、罪人でもない。そうではなくて、正しい人であり、聖なる人であると告白しています。

 

 イエスの姿がガンなどの病気に罹り、死と直面している人達に委ねる心をもたらし、しっかりと死と向きあわせ、「否認、怒り、取引、憂鬱」の段階を経て、受容できて、安心し、穏やかになり、感謝して、希望を抱かせて、死を迎えられる力となっています。

 


 

 2021年3月21日

   「十字架上のイエス」 ルカ福音書23:3248

 

 想像を絶するような痛み、苦しみ 侮辱を受けている十字架上のイエスを考えると、いつも胸が痛み、悲しみを感じ、どうして神の子、救い主であるイエスがこんな苦難を受けなければならないのか。まさに反面教師のように見られるその姿を、どのように理解すればよいのか分からなくなる。

 

 本日の箇所には、その答えも示されていると言えます。それは、壮絶な戦いの中で、愛に生きている姿です。

 

 この時のイエスの姿を三つの視点から考えることができます。その一つは、覚悟です。つまり、命がけで神の愛に生き、神の愛を証していく。命を懸けられるほどのすごい愛である神の愛を訴えている。そのために命を懸けていこうとする覚悟です。

 

 二つ目は、確信です。つまり、愛に生きることがどんなに価値あることであるか。愛のない人生に価値があるのか。愛がなければ素晴らしい能力や働きの価値は半減するのではないか。愛があってこそ人生に意味と生きがいを与えるという確信です。

 

 三つめは、願いと期待です。つまり、皆愛に生きることができるから、すべての人に愛のある人生を生きてほしいという願いと期待です。
 イエスの覚悟や確信、そして願いが私たちにおいて実現するために必要なことは、自分の十字架を背負うことです。

 

 背負うべき十字架は、人それぞれによって異なりますが、共通していることの一つは、自分の弱さ、醜さ、罪深さに気づき、認め、告白するという十字架です。

 

 そこに固く立つ時に、主イエスの「父よ、かれらを赦してください。自分が何をしているのかわからない」というとりなしの祈りが自分のことであると認め、悔い、新たにされるはずです。

 


 

 2021年3月7日

     「時を見分ける」 ルカ福音書12:5456

 

 人生をよりよく、豊かに生きていくために、出会うさまざまな事柄や人を、自分にとって必要なことであるのか、また価値あるものであるかどうかを判断し、吟味し、見分けることが大事になります。

 

 主イエスは、時を見分けることに触れ、生ける大いなる神の愛の支配が実現する神の国が、今、ご自分を通して、やってきている。だから今の時を特別な、大事な時として見分ける知恵を持ちなさい。後でではなく、今の時を逃さずに、今のこの時を大事にして、一日一日に集中して、いろいろと苦しいことや苦難があっても、腐らず、不平不満を口に出さず、自分の課題として愛し、受け止め、一生懸命に生きていきなさいと仰っています。

 

 主イエスの勧めには、怒りが込められていて、偽善者と呼びかけているように、口調が強く、裁く言葉になっているのはどうしてであろうかと思います。

 

 一つは、今の時を特別な時として見分けることができずにいる人たちは、自分たちが賢くもなく、強くもなく、豊かでもないのに、中味はボロボロで不安や恐れの思いにあるのに、そのことをしっかりと見ないで、隠して、偽って、自分は賢く、強く、豊かであり、神なしで一人で生きて生けると思っていたからです。

 

 もう一つは、主イエスには、神の愛の支配に守られていることによって得られる安心や喜びそして希望を、いろいろと悩み苦しみ絶望している、すべての人が経験してほしいという切実な愛があったからに違いありません。

 

 神の愛が支配する神の国に入るには、幼子のようにならなければならない。理性や知識を後ろにおいて、それらに頼るのをやめて、清水の舞台から降るような気持ちで受け入れることです。

 


 

 2021年2月28日

   「分裂か平和か」 ルカ福音書12:4953

 

 聖書には本当に難しいところやつまずく箇所が多くあって、いろいろと悩まされ、読む意欲がそがれることがあります。

 

 「平和をもたらすためではなく、分裂させるために私は来た」というイエスの言葉はまさにつまずかせる言葉ではあります。

 

 このつまずきを乗り越えるために必要なことは、イエスは人を救うために来られている方であり、言葉とふるまいを通して、人をとことん赦し、愛し、弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、共に生きられ、神の愛を命がけで伝えられた救い主であるという理解をして、聖書を読むことです

 

 この理解は、つまずきを感じる言葉に、何か他の大事な、深い意味があると思え、「私が与える平和はこの世とは違うものである」というイエスの言葉が心に入ってくるに違いありません。

 

 この世の平和は血のつながりや心の絆で結ばれているものであり、自己中心的な思いを持つ人間によって作り出されているので、万全ではないし、崩れやすい。

 

この崩れやすい絆を強固な、崩れない、万全な、真の平和を構築するためには、これまでのつながりを捨てて、頼ることをやめて、人間性の根っこの部分でつながる人格的な出会いによる絆が必要になる。

 

 私たち人間が根っこから新しくなるためには、大いなる、すべてを支配している、創造主なる、生ける人格的な神との人格的な出会いをする必要がある。これによって人間関係に人格的な絆が生まれて、血縁などの絆を重視するときよりも、強固になる。

 

 主イエスは、生ける神との人格的な出会いがあなたにおいても生まれるために来た。神の愛をもたらし、神とのつながりを実現するため、十字架の苦難と死を身に受けるために来たと。

 


 

  2021年2月14日

   「待ち望む」  エレミヤ書 14:191922

 

 私たちはコロナウイルス感染などの脅威に直面し、命の危機を感じ、不安や恐れを抱いているときに、大丈夫、安心だと思えることを必要とし、求める思いがあります。

 

 紀元前7世紀のイスラエルの人たちが干ばつの危機に晒されていた時、人々は断食や捧げものをして、神の支えを受けようとし、ある預言者たちは、神が支えてくれるから、大丈夫だ、平和が得られるというメッセージを語っていました。

 

 エレミヤは、これらの人たちの願いはかなえられない、神はこれらの人たちを守らない、なぜかというと、彼らの信仰は見せかけの、偽りの信仰であり、本当に神を信じ、神につながっていない。だから幹につながっていない枝に実はならず、枯れてしまうと同じように、安心し、大丈夫だと思える神の支えは得られないと語ります。

 

 神につながっている信仰ならば、偶像なる神々にも心をよせるような二股をかけるような信仰ではなく、ただ神だけを信じ、ただ神の愛と赦しなしでき生きていけないと思い、心からの悔い改めをし、生ける神に戻ろうとする思いが生まれるはずである。

 

 神につながり、神に向き合い、神に信頼している信仰ならば、望みが生まれる。つまり、危機の中に直面して、あきらめずに、なぜですかと問い、このような危機にこそ神の力が働き、神の栄光を表してくださると確信して、カナンの女性のように、罪深いものをも受け入れ、愛し、願いをかなえてくださる神の豊かな愛を信じて、願い続けることができる。

 

 そして待ち望む生き方が生まれる。つまり、様々な危機に勝ち得て余りある神の恵みに生きる中で、危機は乗り越えられないのではないかという恐れに打ち勝ち、危機を乗り越えられるのではないかという望みが勝り、大丈夫になると確信し、待ち望むことができる。